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「……忘れ物はないか?」
「……ナツメ」
「俺は行かないって言ったろ」
「分かってる。冗談」
「そうか」
向かい合った二人は改めて身体を重ねた。
互いの背中に回した手は、大きさも柔らかさも全く違うけれど、同じくらい熱く感じた。
「死ぬなよ」
「じゃあ、送り出すなよ」
「……無茶言え。お前を止めるのは死んでも無理だろ?」
「じゃあ、死なないで」
「……ああ」
数十秒か、数分か、あるいはそれよりももっと長く、二人は抱擁を続けた。
会話はなく、言葉は落ちない。
けれど、互いの温度と、鼓動と、息遣いと、全身が伝える想いで、ちゃんと交わし合っていた。ちゃんと、今度こそ離れない抱擁で。
「もう、行かなきゃ」
「そうだな」
「じゃね、ナツメ」
「ああ……トイ」
ナツメから身体を離そうとしたトイは、そうする前にナツメに肩を掴まれる。そのままナツメは強引にトイの身体を引っ張って、〈森〉へ向かって背中を押した。
困惑するトイに、ナツメは大きな声で告げた。
「トイ!お前を利用するだけの他人に負けるな!課せられた役割なんか思い出さなくていい!」
「……ナツメ?」
ナツメに近寄ろうとすると、ナツメは首を横に振った。
行け、という事らしい。
「お前の命だ!自分の生きたいように生きろ!下を向いて過去を憎むなら、上を仰げ。それがどんな運命でも、自分の意志で道を選んだお前になら、きっと自分の答えが見つけられる」
ナツメは、泣いていた。
ナツメの涙なんて、初めて見た、とトイは思った。
緋色の瞳に雨が差す。それでも熱く燃える瞳の炎は、全てトイに捧げられる炎だ。
「トイ……もう、死ぬなよ」
「えっ……」
じゃあな、とトイに背を向け、馬に乗ったナツメは、トイの返事を聞く前に手綱を振るい、愛馬を走らせた。
「あっ、待っ……」
手を伸ばした時には既に馬車は動き出していて、今から走り出しても追いつけそうになかった。
トイは覚悟を決めたはずなのに、気が狂いそうな程暴れだす寂しさに、声を震わせた。
「ナーツメーぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!大好きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ、いいいいいぃぃぃぃぃっ!!!!!!またねぇぇぇっ!!」
喉が痛む。声が掠れる。
視界が涙で滲んだ。大好きな馬車が、最後なのに、見えなくなる。
またなんて、きっともう来ない。
けれど、口に出せば、もしかしたらまた会えるかもしれないと思った。
「……ばか」
涙を拭いて、ナツメに作ってもらった大きな荷物入れを背負う。
ずっしりとした重さが、かえって嬉しかった。
他の苦しみが無いと、歩き出せそうになかったから。
「よぉぉぉぉぉぉぉぉっ、し!!」
眼前に屹立する巨大な〈森〉を睨みつけ、トイは叫んだ。
「喰えるもんなら、喰ってみろ、〈世界を喰らう森〉!」
それは、歪な運命が動き出した日の事だった。
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