9.ばか、大好き

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「……忘れ物はないか?」 「……ナツメ」 「俺は行かないって言ったろ」 「分かってる。冗談」 「そうか」  向かい合った二人は改めて身体を重ねた。  互いの背中に回した手は、大きさも柔らかさも全く違うけれど、同じくらい熱く感じた。 「死ぬなよ」 「じゃあ、送り出すなよ」 「……無茶言え。お前を止めるのは死んでも無理だろ?」 「じゃあ、死なないで」 「……ああ」  数十秒か、数分か、あるいはそれよりももっと長く、二人は抱擁を続けた。  会話はなく、言葉は落ちない。  けれど、互いの温度と、鼓動と、息遣いと、全身が伝える想いで、ちゃんと交わし合っていた。ちゃんと、今度こそ離れない抱擁で。 「もう、行かなきゃ」 「そうだな」 「じゃね、ナツメ」 「ああ……トイ」  ナツメから身体を離そうとしたトイは、そうする前にナツメに肩を掴まれる。そのままナツメは強引にトイの身体を引っ張って、〈森〉へ向かって背中を押した。  困惑するトイに、ナツメは大きな声で告げた。 「トイ!お前を利用するだけの他人に負けるな!課せられた役割なんか思い出さなくていい!」 「……ナツメ?」  ナツメに近寄ろうとすると、ナツメは首を横に振った。  行け、という事らしい。 「お前の命だ!自分の生きたいように生きろ!下を向いて過去を憎むなら、上を仰げ。それがどんな運命でも、自分の意志で道を選んだお前になら、きっと自分の答えが見つけられる」  ナツメは、泣いていた。  ナツメの涙なんて、初めて見た、とトイは思った。  緋色の瞳に雨が差す。それでも熱く燃える瞳の炎は、全てトイに捧げられる炎だ。 「トイ……もう、死ぬなよ」 「えっ……」  じゃあな、とトイに背を向け、馬に乗ったナツメは、トイの返事を聞く前に手綱を振るい、愛馬を走らせた。 「あっ、待っ……」  手を伸ばした時には既に馬車は動き出していて、今から走り出しても追いつけそうになかった。  トイは覚悟を決めたはずなのに、気が狂いそうな程暴れだす寂しさに、声を震わせた。 「ナーツメーぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!大好きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ、いいいいいぃぃぃぃぃっ!!!!!!またねぇぇぇっ!!」  喉が痛む。声が掠れる。  視界が涙で滲んだ。大好きな馬車が、最後なのに、見えなくなる。  なんて、きっともう来ない。  けれど、口に出せば、もしかしたらまた会えるかもしれないと思った。 「……ばか」  涙を拭いて、ナツメに作ってもらった大きな荷物入れを背負う。  ずっしりとした重さが、かえって嬉しかった。  他の苦しみが無いと、歩き出せそうになかったから。 「よぉぉぉぉぉぉぉぉっ、し!!」  眼前に屹立する巨大な〈森〉を睨みつけ、トイは叫んだ。 「喰えるもんなら、喰ってみろ、〈世界を喰らう森(セツ)〉!」  それは、歪な運命が動き出した日の事だった。
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