10.〈森〉の遺志

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 それは、〈森〉を越えたいと言った日のナツメの事だ。  いつものナツメなら、トイを小馬鹿にしながら、〈森〉の説明をはじめから丁寧にして、〈森〉へ行くなどという無茶を止めようとしてくれただろう。しかし、あの日のナツメは、説得はしてくれたが、すぐに引き下がった。  まるで、〈森〉によってトイという厄介者を処分しようとしているみたいに――。 「違う!ナツメはそんな事しない!」  やめろ、〈森〉ぃ!  と、〈森〉に八つ当たりをしたトイは、「しかし」と思考を続ける。  確かにナツメはしそうにもない。しかし、ではなぜ送り出したのか?トイを?  ナツメが本当にトイを想ってくれているなら、まさになんてさせないだろう。こんな、あるのかも分からない弱点探しをたった一人でさせるなど。  もし見つからなかったら、〈森〉へ無策で突っ込むか、餓死するか、平原を引き返そうとして獣や野盗に襲われるか。 ――ナツメは、、しそうにない? 「……あれ?」  何かが引っかかる。  魚の骨が喉に引っかかった時のような不快な、あるいはもどかしいような気分でその場をぐるぐると歩いている時だった。  そういえばあの時は宿の店主に引き抜いて貰ったんだっけ、と――。 「………」  目と、視線が重なった。 「えっ、あれっ?あーっ!!ちょちょちょ、待って!行かないで!こっちに来てっ」  トイは、黒髪の長髪の子どもと目が合った。  生物を喰らうはずの〈森〉に、人間が、それもトイと同じくらいに見える子どもがいる。  ともすれば、その子どもがいる場所こそが〈森〉の弱点なのかもしれない。  希望に湧いた胸は、膨れ上がる違和感や恐怖を押しのけて、佇む人影の元へトイの足を動かした。 「やったっ!いけるっ!ナツメ、俺やったよ!」  喜びに声を弾ませ、重い荷物をもろともせずに軽快に走っていくトイ。  〈森〉に襲われない、数百メートルの辺りから、一分もしないで視界に木々が収まらなくなるくらいまで近づいてきた。  ここまで近くに来ると、〈森〉はもはやごつごつした木肌の壁で、深い闇もより濃くなってきた。 「あっ、待って!」  黒髪の子にあと少しで届きそうだという所で、その子は踵を返して〈森〉の中へ消えてしまった。  一瞬で姿が隠れて、なんとなくの方向以外その人影の手がかりがなくなってしまう。  だが、あと一歩で〈森〉に入れるという所まで襲われずに来られた。  人影を見失ったとしても、弱点を見つけたのだ。  収穫としては十分だろう。  ナツメに鍛えられたトイは、その一歩の間に、言語以前のイメージの段階でそこまでの算段をつけた。走り出した身体は急には止まれず、冷静さを些か欠いた状態でついに〈森〉に足を踏み入れる――その、刹那前。  ふと、疑問がよぎる。  〈森〉の闇は深い。  人影を視認出来たとしても、〈森〉の闇に近い黒い色の髪など、はっきり分かるだろうか。黒や青、緑だったとしても、深い闇に呑まれて色の識別など出来ないだろう。それこそ、自分の髪の色――白でもない限り。  どうして、子どもだと、思ったのだろう、と。  刹那の疑問は、突如として振ってきた世界の裂ける音に掻き消された。  バリバリバリバリバリバリッッッ!! 「――え」  トイの正面から、上から、左右から、下から。  あらゆる方向から、木々が襲いかかってきた――と、トイは本能で理解した。思考は、それに追いつかない。  正面から、闇と血を纏った鋭利な枝が幾本も幾本も迫る。上からは幹をばきばきと折りながら、大量の木が覆いかぶさってきた。左右からは木肌の皮が捲れて、鞭のようにしなりながらトイに伸びる。  そして下、トイの立っている地面は、木の根が血管のように浮き出てきて、唇のような楕円を描き、先端がとがった葉が歯のように幹の周囲に並び、トイを呑みこむような位置で構えた。  〈世界を喰らう森〉。  それは、きっと、生き物ではないと、トイは木々に身体を貫かれ、蹂躙(じゅうりん)されながら思った。  それは、という――遺志だ。 「め」  散り散りなったトイの身体の、鮮血ごと喰らった幹の口。  それが閉じる前に、空気が抜けるような、奇妙な音を鳴らして、トイは喰われた。  〈世界を喰らう森〉に――。
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