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1.消音
黴と血の染みついた岩壁の地下牢は寒く、指先にはもう感覚が無かった。
「ほら、立て。〈死の音〉らしく最期くらい何か言ったらどうだ」
鞭で腿を叩かれ、その痛みで目が覚めた。燃えるように鋭利な血の気配に、声を漏らす事すらできない。
枯れた涙の代わりに髪を乱暴に掴まれて、傷ついた頭皮から赤が一筋滴る。色彩を失ったその目が捉える世界には、赤だけがあった。
「お前のせいで娘を殺した」
「そんな事言って、嬉々としていたじゃねぇか」
「〈死の音〉じゃないと知っていれば殺さなかった」
「まあ、僕も人の事は言えないけどね」
長く、綺麗な髪だった。
今は、その空の雲のような白い髪は、屍肉に赤黒く染まっている。
自分の血と、誰かのものとで汚れた身体を引きずられ、尖塔の地下牢の階段をゆっくりと進んだ。
ごつごつした階段に全身がぶつかって痛んだ。じたばたと暴れると、さらに強い力で髪を引っ張られる。
「おい、暴れるなよ。ここで死なれちゃもったいねぇだろ」
「僕がこっちを持ってるよ。早く上へ行こう」
もう一人が、両脚の足首を持つ。爪を立てて、骨を折らんとするような力を込めて。
青白くなる足首は、血と泥で汚れた身体の他の部位よりも明るい色になった。
「ぅっ」
足先に力が入らなくなった。
手は冷たいのに、顔と足が熱い。
感情などとうに失くしてしまったけれど、哄笑に挟まれて、口から笑みが零れた。
「よし、置け」
「はっ」
気が付けば、断頭台に顔を押し付けられている。
無理矢理、正面を向かされた。強引な角度のせいで痛む喉頭に息を漏らした。細めた視界には、おびただしい数の観衆がいる。その目は皆一様に開ききっていて、口には歓喜さえ浮かんでいる。
ある者は祈り、ある者は喜びに泣き、ある者は罵倒し、ある者は石を投げつけた。
鋭利な石が頬にぶつかり、充血して膨れる。
「これより、〈死の音〉の処刑を行う!これは、ただの処刑ではない!長く続く戦争の終わり、そして我々を裏切った王政への終止符でもあるのだ!この〈死の音〉によって、多くの少女が殺された!その無念に泣いた者も多かろう!だが、その苦しみも!怒りも!今、この瞬間を以て終焉となる!」
耳を劈く大歓声の後に、「殺せ」「殺せ」と狂ったように繰り返す観衆の声。
執行人はそれに答えるように斧を振り上げ、もったいぶるように四肢を切り落としてから、首筋に切っ先を添える。
「これで、終わりだ」
血と熱と怒りと狂声。全ての音が、四肢の切断面から身体に入ってくるような気がした。
地面に転げ落ちた華奢な手足から吹き出す血液に、視界が赤に染まる。
赤い海に浮かぶ、無数の翡翠の瞳が、一斉に絶頂を迎えたように色を変え、それと同時に消えてなくなった。
現れ、消え、現れ、消え。
まるで世界が廻っているみたいだった。
何かが弾ける音がした。弾け、切れて、回る。
そんな音がする。
「〈死の音〉は、ここに死ん――」
その刹那、赤い海に浮かんでいた翡翠の球体が弾け、切れて、回り、世界から一切の音が消失した。
暫くの間続いた静寂を破ったのは、断頭台に滴る血が奏でる水音だった。
「〈死の音〉は、死ねないんだよ」
くすくす、とたがが外れたように笑みを零す、白髪のその子。
首から下は汚れたまま、首から上が生まれ変わったかのように綺麗に浮かぶその子だけが、その場で立っていた。
「はは」
乾いた笑いで、身体に流れる血を払う。
その子は、身体を引きずりながら、ゆっくりと歩いた。
彼方の森へと、ゆっくり。
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