2.十一年

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2.十一年

 酷い悪臭が鼻を衝く。  男は馬車の手綱を振りながら顔をしかめた。この辺りは獣の棲み処がある。人を殺す類の獣だ。獣除けにきつい臭いを放つ道具を使っていて、嗅覚が慣れてきた矢先に、この臭いときた。大方、獣に襲われた人間の遺体が転がっているのだろうと、鋭い息を漏らして、手綱を振るう。  昼間だというのに、暗い気配のする悪臭だった。  澱んだ空気を割く手綱の破裂音が不気味に木々の間を抜けていった。  起伏の少ない平野を、小さな森に沿って進む。  何も無ければ、もう少しで街に着く。馴染みの宿に、温かい湯がある。身体に染み込んだ獣除けの臭いを荒い落としてから、表面を焼いた赤身の肉をパンに挟んで食べる。  ささやかな旅の幸福の予定は、しかし、すぐに台無しになる。 「うっ、なんだ、この臭い」  森の入口から、眩暈(めまい)がする血の腐敗臭が漂ってきた。賢い獣はこの臭いで獲物を捕まえる事がある。不用意に立ち止まれば、馬車ごと獣に襲われるかしれない。  だが、男は反射的に馬車を止めていた。 「おい……おいっ!大丈夫か!」  男が止まった位置から少し離れた場所に、人影が見えた。遠目で、それがまだ幼い子どもだと分かると、何かに突き動かされるように、男は飛び出していた。  それこそ、獣の罠だとしたら、街や宿どころではない。それでも男は飛び出さずにはいられなかった。 「くそっ。思い出しちまうじゃねぇか」  口の中でそう零した男は、ものの数秒で倒れている子どもの近くまでやって来た。 「……っ」  子どもの様子を見て、男は言葉を失った。  血と継ぎ接ぎだらけの薄い(ころも)はくしゃくしゃに拠れていて、赤黒く汚れた肌を露出させていた。太ももの辺りには何かに噛みつかれたのか、楕円形の傷跡が痛々しい。裸足の足の爪の間には泥が詰まっていて、両手の指先も似たような有様だった。  綺麗だっただろう、背中まで伸びている白髪は、血肉や泥で汚れ、無残な姿になっていた。顔を見ると、青あざが付いた頬は膨れ、両の目尻には鋭い傷が奔っている。  とてもではないが、生きているとは思えなかった。 「……すまない」  男はそう言いながら、子どもの胸に手を当てる。 ――ドクン。 「なっ、お前、まだ……っ」  生を叫ぶ子どもの鼓動が、男に訴えるようにその手のひらを衝く。ドクン、ドクンと、何度も、何度も。  少し迷ってから、男はその子を抱きかかえると、急いで馬車に戻り、その子を荷台に横たえてから、近くの川辺へ向かった。 「忘れるなと、言いたいのか……っ!」  裂帛の声を手綱で掻き消し、男は馬車を急がせる。  噛んだ唇が切れ、男の口から血が滴る。  赤身の肉を喰ったみたいな、血の雫だった。
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