3.翡翠の瞳

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 男はどう答えようか迷ったが結局、気にすんな、と素っ気無い言葉しか返せず、すぐに調子を変えて、誤魔化すように続けた。 「俺は、あー、ナツメ。そう、ナツメだ。名前。お前は、なんて言うんだ?」 「ナツメ――。ナツメ」  どこか嬉しそうに繰り返す子どもは、男――ナツメの胸元を指差しながら、 「ヴ、ァ、イ……それは、名前じゃないの?」  ナツメの胸元には銀の小さな長方形のプレートがついていて、そこに書いてある文字列を途中まで読み上げたようだ。 「――これか?気にすんな。飾りだよ」 「そう」 「じゃあ、改めて。名前、聞いてもいいか?」  ばつが悪そうに俯く子どもに、ナツメはまたドジを踏んだかと内心焦っていたが、杞憂に終わった。  きょとん、と力が抜けた表情で、子どもは事もなげに呟いた。 「何も……覚えてない」 「何も、って、何もか?ほら、故郷とか、好きなものとか」 「分からない。何も」 「そうか……」  こめかみを押さえて声を絞ったナツメがどうしたものかと唸っていると、ねぇ、と焚火の向こうから木の葉を運ぶような優しい色の声が聞こえた。 「ねぇ、ナツメ。ナツメが付けてよ。名前」 「お、俺がか?お前はそれでいいのか?」 「うん。ご飯もくれたし、きっと、優しいんでしょ?ナツメは。だったら、いいよ」 「――そうか」  言葉や道具の使い方、状況の判断などは覚えている。自分に関する事の全ての記憶に繋がれないだけなのだろうか。  なんにせよ、名前が無いと不便だと、ナツメはまた別の意味でこめかみを押さえた。 「……」 「と、い?」 「ああ。トイ、なんてどうだ?」 「トイ……うん。いい感じ」 「ははっ、そうか。よし、じゃあトイ!」  はいっ、と明るく返事を返したトイは、にっこりと破顔する。  ナツメも微笑みを浮かべ、こう告げた。 「今日はもう休もう」  鍋と食器を片し、荷台にトイを寝かせたナツメは「おやすみ」とその白髪を撫でてやった。不安げなトイが寝付くまで背中にぽん、ぽん、と一定の間隔で触れる。トイが寝たのを確認してから、焚火の前に座りなおしたナツメは、胡坐をかいた太ももに肘を乗せ、その手のひらに顎を預けて火の粉を飛ばして揺蕩(たゆた)う炎をじっと見つめた。 「、なんだ」  ナツメはその火に何を見るのか、鋭い眼光は遠い場所を覗いているようだった。
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