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第3話 噂話
お昼休みになり、静代さんが張り切ってお弁当を持たせてくれたので、それを机に置いた。
午前中は番号の並び順に書類を整頓したり、コピーの使い方を教えてもらい、何事もなく無事終わった。
時々、清永のおじ様が覗きに来ていたけれど、惟月さんの姿は一度も見ることはなく、海外事業部でも閑井さん以外の人から話しかけられることもなかった。
それはなんとなく、覚悟していたから、あまり気にしないようにしていた。
昔から、友達はいつも遠巻きに眺めていて、自分から話しかけてきてくれる子はなかなかいなかったから、慣れているというのもある。
お弁当を広げると静代さんの得意なハンバーグが入っていた。
ハンバーグを箸で切ると、中にはウズラの卵をゆでたものが隠れていて、甘辛なソースケチャップが絡み、とても美味しい。
小さい時からこのハンバーグがお気に入りだった。
ウズラの卵が入っていると、ちょっと特別なかんじがする。
好きだと知っていて、静代さんがお弁当にいれてくれたのだと思うと、その心遣いが嬉しかった。
食事を終えて、お弁当箱を片付けると、化粧室に向かった。
近くの化粧室に入ろうとすると、声が聞こえてきて、なんとなく足を止めた。
「高辻のお嬢様見た?」
「見たわよ。シャネルの白のジャケット。あれいくらなのかしら」
「バッグもシャネルだったわよ」
「えー!すごすぎるー」
「朝も重役よりすごい車で通勤でしょ?高辻と清永の格の違いを見せつけにでもきたのかしら」
「お出迎えもすごかったわね。いつもは偉そうにしている重役達がペコペコしちゃって」
私の話題のようで化粧室には入れそうになかった。
仕方ないと思って、離れようとした時―――
「お嬢様は知らないのかしら」
「清永専務には恋人がいるって」
「専務も可哀想よね。好きな相手と結婚できないなんて」
えっ―――どういうこと?
「しかも、同じ海外事業部でしょ?」
「中井さん、どんな顔をして、仕事をしているのかしら」
中井さん。
頭の中でその名前を反芻した。
そこまで聞けば、もう十分だったのに噂話はまだ続き、二人は海外支店から惟月さんが帰ってきてからの付き合いだったことがわかった。
お相手の中井さんが海外支店に勤務を希望されていて、その相談に乗る内にそんな関係になったそうだ。
私との婚約が決まったか、決まらないかくらいの時期だった。
机に戻り、ぼんやり座っていると、明るくハキハキした女性が何人かの若い社員達と入ってきた。
「美味しいお店だったわね。器がもう少しおしゃれなら、良かったわ。輸入食品だけじゃなく、器も提案していきましょう!」
中井さんは細身のパンツスーツを着こなし、スタイルもよく、大人っぽくて、綺麗な人だった。
仕事もできるのか、周りにはたくさん社員の人達が取り囲み、イキイキとした表情を浮かべている。
キャリアウーマンってあんな人のことを言うのかも知れない。
中井さんは一度も私を見なかった。
きっと私には興味すらなかったんだろう。
午後からも閑井さんと二人でこまごまとした仕事をして終わった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
たいした仕事もしていないはずなのにクタクタで、迎えに来た車の中では一言も話せなかった。
少し眠ったおかげで、楽にはなったけれど、気持ちはどことなく、重い。
「ただいま帰りました」
玄関で靴を脱いだなり、リビングから兄が顔を出した。
「おかえり。咲妃。清永はどうだった?大変だっただろう?」
いつもは帰宅が遅い恭士お兄様が帰ったなり、待ち構えていた。
「大丈夫です。皆さん親切でしたから」
兄は勘が良く、下手なことを言えば何をするかわからない。
昔、私が待ち伏せや隠し撮りをされた時はその男性を警察に付き出したあげく、学校側にセキュリティの甘さを指摘し、校門前に監視カメラと警備員が増やされた。
通わせていた保護者からは感謝されたみたいだったけれど。
「本当に?」
「ええ」
「なら、いいけどね。なにかあれば、すぐに言いなさい」
「恭士お兄様。着替えてきますね」
慌てて、その場から逃げ出した。
あまり、話すとボロが出てしまう。
本当は今日、あったことを話してしまいたかった。
でも、そうなれば、きっと両親と兄は激怒し、清永のおじ様や惟月さんに迷惑がかかる。
そして、婚約もなくなる。
むしろ、惟月さんにとっては私との婚約はないほうがいいに決まっている。
けど、私はまだ諦めきれず、今日、聞いたことが嘘であってほしいと願っていた。
「まだ……本人から聞いたわけじゃないから…」
顔を洗い、メイクを落としたバスルームの鏡に映った自分の顔は泣き出しそうな顔をしていた。
気分を上げるためにお気に入りの薔薇のバスソルトを選び、お湯に溶かすと甘い香りがバスルームに満ちた。
甘い香りに包まれると、ようやく肩の力が抜けた気がした。
白い湯気と熱いお湯が心地よく、体を癒していく。
目を閉じれば、眠ってしまいそうだった。
「そうよね……。まだ一日目だもの。わからないわ」
自分に言い聞かせるようにぽつりとつぶやいた声は広いバスルームに響いて、溶けていった―――
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