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第4話 二人の関係
次の日からは車を少し離れた所にとめてもらい、そこから歩いた。
早めに出勤すると、まだ人もまばらで海外事業部のフロアはシーンとしていて、とても静かだった。
その中で人影が一つだけあった。
閑井さんだった。
閑井さんはたった一人で皆の机を拭いている。
「閑井さん。おはようございます」
「うわっ!お嬢様、早いですね」
「お嬢様はやめて下さい。高辻で結構ですから」
「えっ!じゃ、じゃあ。た、高辻さんで」
「はい。私もお手伝いさせてください」
「掃除なんてさせられませんよ!」
「これも社会勉強ですから」
しばらく、閑井さんは迷っていたけれど、私の意思が固いと知ると雑巾を渡してくれた。
閑井さんと一緒に机や棚を拭き、コーヒーやお茶をいれた。
「いつも閑井さんは朝早くに来られて、このお仕事をされているんですか?」
「こんなことくらいしかできませんから」
「いいえ。ご立派だと思います」
「りっ、立派だなんてこと、そんなことはっ。え、えーと。高辻さんはお嬢様なのに仕事を覚えるの早いですよね。昨日、僕と一度しかお茶とコーヒーいれてないのに手順も全員のカップも完璧に記憶してますよね」
「閑井さんの教え方がお上手なんだと思います」
「そんなことないです」
お湯が沸き、まだ誰もこないので、まったりと二人でお茶を飲んでいると、他の人がようやくやってきた。
午前の仕事は昨日より、ちょっとランクアップしたのか、資料のコピーを任されて、コピー機を使う仕事をさせてもらえた。
会社で働いているという、実感があり、とても楽しかった。
午後からも大量のコピーを任されて、それをコピーしていると、閑井さんがやってきた。
「給紙は大丈夫ですか?」
「ええ。こちらにマニュアルが置いてありましたから、読ませて頂きました」
「そうですか。良かった。」
「もう飽きませんか」
「いいえ」
閑井さんが聞いてきたけど、今の所は楽しくコピーをしていた。
「たくさんあるなあ」
閑井さんは終わったものを運ぶフロアごとにわけたけれど、多すぎて持てずにいた。
「私も一緒に持っていきます」
「だ、だめですよ」
「閑井さんだけじゃ、大変ですから」
閑井さんの持ちきれなかった分を持ち、営業部に行くと、社員の人達がおしゃべりをしていた。
「専務から、婚約の話はお断りできないでしょうね」
「高辻は大きなグループだからね。本気になれば、清永商事が受注したものなんか、横取りだってできるんじゃないか」
「高辻の常務はやり手だよ。専務が婚約しているから、清永商事に仕事を譲ってくれている所もあるからなあ」
「それにしても、あのお嬢様。馬鹿みたいよね。今日はずっとコピーしていたわよ」
「みんなが持ってくる全部のコピーをしていたからな」
「なにも知らないでね」
声をたてて、笑っていた。
閑井さんが私を心配そうに見ていた。
「あ、あの」
「平気です」
営業部に入って行くと、おしゃべりが止まり、気まずそうに私を見ていた。
「こちらに置きますね」
さっきまで、笑っていたのが、嘘みたいに静かだった。
営業部のフロアから出る前に向きなおり、言った。
「コピーだって、立派な仕事です。おしゃべりをされているよりは会社に貢献していると思いますけど。どうでしょう?」
青い顔で顔を見合わせていた。
「次の場所に行かなくてはなりませんから、失礼します」
営業部からは何も聞こえなくなった。
「高辻さん、すごいですね」
「え?」
「僕は泣き出すかと思って、ハラハラしてました」
「昔から、お嬢様だからって、色々言われることもあって……こういうことには慣れていますから」
けれど、閑井さんは婚約の話には触れなかった。
同じ海外事業部で知っているはずなのに。
私もそれだけは何も聞けなかった―――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
午後からもコピーの仕事をしていた。
取りに来ないところには自分から持って行くと、恐縮されてしまう。
終わった物を分けていると、役員に配る資料があった。
「これは役員室の……」
今日は遊びで伺うわけではないから、入っても平気なはずよね……。
エレベーターに乗り、役員室前までくると、やっぱり緊張した。
恐る恐る専務の部屋にノックしようとして、手を止めた。
わずかにドアが開いていて、惟月さんが誰かと話す声がしたからだった。
「辞令がでたら、行くのか?」
「当然よ。入社した時から、ずっと希望していたのよ?やっと力を認めてもらって、大きなプロジェクトに関われるの」
「結彩。お前が海外に行くなら、帰りは待たない」
「わかっているわ。待てないわよね?婚約者が会社にまで、おしかけているものね」
くすくすと中井さんは笑った。
まるで、子供のイタズラを笑うように。
「可愛いじゃない。ね、惟月。私が好きなら、待っていてよ」
「無理だ」
「そんなことないわ。惟月は待っててくれる」
中井さんは惟月さんを抱きしめていたけど、それを乱暴に突き放すと怒って惟月さんは言った。
「捨てるなら、きっぱりと捨てていけ。中途半端な関係でいたくない」
中井さんは驚いていたけど、笑った。
「それじゃ、私が海外支店に行ったら別れる、行かなかったら、惟月と結婚するわ」
そこまで聞くのが、精一杯で気付いたら、コピー機の前に逃げ帰っていた。
他に人がいなくて良かった。
情けなくて、悲しくて、涙がこぼれた。
惟月さんには好きな人がいたのに。
どうして、婚約してしまったのだろうか。
私は愛し合う二人の仲を邪魔するだけの存在だった―――
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