第5話 兄の訪問

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第5話 兄の訪問

体が重い―――泣いたせいか、ちょっと目がはれていたけど、化粧でなんとか誤魔化した。 昨日の惟月(いつき)さんと中井さんのやり取りがなんども頭の中でループして、私はもう婚約を取りやめるつもりでいた。 それをどう両親に言いだそうかと悩んでいると、兄が私を見て、言った。 「咲妃(さき)。元気ないな。昨日はなんの仕事をしていたんだ?」 恭士(きようじ)お兄様がミネラルウォーターを飲みながら、聞いてきた。 「恭士坊ちゃま。おしゃべりより、食事をなさってくださいな」 朝はあまり食べない恭士お兄様は静代さんに叱られて、目玉焼きをフォークでつついていた。 「昨日は頼まれたコピーをしていたのよ」 「他は?」 言葉を選びながら、角がたたないように言った。 「それだけよ。私からやりたいと申し出て、コピーをさせていただいたの」 「一日中?」 「え?ええ」 恭士お兄様が険しい顔をしたかどうか、見たけれど、飄々としていて、表情からはなんと思ったのか、まったく読めなかった。 「ふうん、そうか」 余計なことを言わないよう黙っていると、静代さんがお弁当を持ってきてくれた。 「恭士坊ちゃま。咲妃お嬢様が心配なのはわかりますけど、ご自分はどうなんです。朝食が進んでおりませんよ」 「静代には敵わないな」 「ほほほ。恭士坊ちゃま。ちゃんとサラダを食べてお仕事に行って下さいませ」 静代さんは手付かずのサラダに目をやって言った。 流石の恭士お兄様も静代さんには強くでれず、ため息をついていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「おはようございます」 「高辻さん。僕より早かったですね」 閑井(しずい)さんが驚きながら、スーツの上着を椅子にかけた。 机を拭いていると、閑井さんが言った。 「高辻さん、仕事はいつまで続けるんですか?あ、変な意味じゃないですよ!?ただ、純粋にいつまでなのかと、いう意味で!」 「わかってます。まだ未定です」 「そうですか」 本当はもうやめようと思っていた。 このまま、清永(きよなが)商事に来ていれば、迷惑だろうし、二人の邪魔になる。 諦めたくはなかったけど―――私は親が婚約を決めてから、自分では何もしてこなかった。 形だけの婚約者だと思われていても不思議じゃない。 雑巾を洗っていると、他の人が出勤し始めた。 「閑井君。これ、やっておいて」 「えっ!でも、これ中井さんがまとめておいてくれって言われて引き受けていたじゃないですか」 「そうなんだけど、時間なくて。今、忙しいの。お願いね」 中井さんが閑井さんに仕事を渡していた。 「こ、これ、中井さんの分だけじゃないですよね。他の人のも……」 「ごめんね?閑井君」 両手を合わせて、中井さんは頼むと行ってしまった。 困った顔で机の上に置かれた仕事を見つめている。 「あの、閑井さん。今日の雑用は私がやりますから」 「ありがとうございます!」 「いえ、たいしたことできませんけど」 お茶のカップを洗ってから、コピー機の所で作業をしていると、ざわざわとフロアの方が騒がしい。 「高辻グループの常務よ!」 「嘘!恭士様がいらしたわよ!」 女子社員が集まり、あっという間にフロアが人でごったがえした。 「恭士お兄様!」 なぜ!?ここに? 涼しい顔で現れた兄は清永の部長や重役達に囲まれていた。 「咲妃の仕事ぶりを見に来たのと、惟月君に挨拶にきたんだ」 「惟月さんに!?」 何を話すというのだろう。 恭士お兄様が来たのと同時に清永のおじ様が駆けつけてきた。 「恭士君!いやあ。久しぶりだね」 「ご無沙汰しております。咲妃がお世話になっているので、ご挨拶に参りました」 にっこりと微笑んでいるけれど、恭士お兄様の目は笑っていない。 「咲妃。一人でこの仕事を?」 山積みの書類にぽんっと手をのせて言った。 周りが息をのむのがわかった。 「ち、違います!閑井さんと二人でしていました!」 慌てて閑井さんを連れてきた。 閑井さんは顔を赤くし、慌てていた。 「なるほど。閑井君。妹が世話になったようで、ありがとう」 「ひえっ!い、いえっ」 手を差し出されただけで、閑井さんは怯えて、私の後ろに隠れた。 「清永社長。それで惟月は?」 「呼んでこい!早く!」 「いますよ。なにか用ですか?恭士さん」 二人がにらみ合うと、重い空気に包まれた。 「君から見て咲妃の働きぶりはどうかな?」 「会社は遊びに来る場所ではありません。社会勉強なら高辻の会社でやればよかったのでは?」 「そうですよね。ごめんなさい。私、もう―――」 言いかけた瞬間、後ろにいた閑井さんが前に出た。 「高辻さんは遊んでなんかいませんでしたよ!大量のコピーをちゃんとやって、それを運んで、陰口を言われていても毅然(きぜん)としていて、一番早く出勤して皆の机をふいてくれたり、お茶やコーヒーをいれてくれるんです!」 閑井さんの言葉に清永のおじ様が青くなり、惟月さんは驚いていた。 「咲妃さんはすごいんですよ。たった一回で全員のカップやゆのみを覚えてしまうんです」 「咲妃にそんなことをさせていたのか」 恭士お兄様は笑みを消し去り、清永のおじ様を睨み付けた。 「帰るぞ。咲妃。これからは清永との付き合い方を考える」 「お兄様だけでお帰りになって。私はまだ仕事がありますから」 「咲妃」 「清永のおじ様のご好意で働かせて頂いてるのにそんなこと言わないで下さい」 背中を押して、フロアから追い出した。 清永のおじ様はホッとした様子だったけれど、海外事業部の部長である間水さんが呼び出され、叱られてしまったようだった。 「高辻さんは座っていてください」 戻ってきた間水さんはイライラした様子で私に言い、コピーを他の人に任せていた。 せっかく仕事をもらったのに――― 「すみません。僕が余計なことを言わなければ」 「いいえ。閑井さんがかばってくれた時、嬉しかったです」 でも、やることはなくなってしまった。 しょんぼりしていると、閑井さんがこれ、と書類を持ってきて、渡してくれた。 「営業部に持っていってもらっていいですか?」 「はい!」 書類を受け取り、廊下を歩いていると、向こうから惟月さんが歩いてきた。 とっても気まずい。 なるべく邪魔にならないように端に寄り、目を伏せた。 「さっきは悪かった」 「え?」 「なにも知らないでひどいことを言った」 「い、いえ!」 惟月さんは頭を下げて、足早に去って行った。 初めて惟月さんから声をかけてくれた。 たったそれだけのことだったのにとても嬉しく思う自分がいた―――
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