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第7話 辞令
それは突然にやってきた。
私にすれば、突然のことだったかもしれないけれど、惟月さんにとっては違っていたかもしれない。
「海外支店への辞令が出たわよ」
閑井さんがバタバタと走って行った。
なんだろう、と思って、私も一緒に行くと、そこには人だかりができていた。
白い紙に海外支店への異動者の名前が書いてある。
『中井結彩』とあり、驚いて中井さんを見ると勝ち誇った顔をしていて、その隣にいた閑井さんはしょんぼりと肩を落としていた。
「はあ…だめだった…」
閑井さんはがっかりした様子で席に着いた。
「閑井さんは海外支店希望なんですか?」
「はい。清永に入社してから、ずっと海外に行くのが夢だったんです。大きなプロジェクトに関わりたいっていうのもありますけど」
だから、走って見に行っていたのだと分かった。
「おめでとう、中井さん!」
「向こうでもがんばってね!」
「よかったな。中井なら、きっとうまくいくよ」
間水さんは中井さんと握手をし、微笑み合っていた。
「間水さんも海外支店に専務と同時期にいて、成功して帰ってきて部長になったんですよ」
閑井さんが教えてくれた。
「そうなんですか」
「逆に失敗すれば、左遷されるので、けっこう覚悟はいるんですけど。やっぱりやりがいを考えると希望せずにはいられないというか」
「閑井さんなら、そのうち行けますよ。仕事も真面目で丁寧ですし、信頼を得たら、強いと思います。焦らなくても、きっと実力を認められますよ」
「そうですかね」
「ええ」
「高辻さんに言われると、そんな気がしてきました」
二人で話していると、中井さんがやってきて、閑井さんに言った。
「閑井君。同期なのに先に海外支店に行くことになって、ごめんなさいね」
「いえ。中井さん、頑張ってください」
中井さんはつまらなさそうな顔をして閑井さんを見た。
「僕は目の前の仕事を今は頑張ります。気にしないで下さい」
ちら、と中井さんは私に一瞬、視線を向けた。
「高辻さんは周りに取り入るのが上手ね」
ふいっと顔を背けて、行ってしまった。
「すみません。僕のせいで、あんな嫌味を言われて」
「いいえ」
あんなことを言われたのは初めてだったから、驚いて何も言えなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「中井さんの送別会ですか?」
お弁当組の人達が来て
「そうよ。高辻さんもくるわよね?今、人数確認していて」
「私は―――」
「こなくていいわよ」
中井さんがドサッと書類を大量に置いた。
「高辻さん、やることがたくさんあるでしょ?」
あからさまな嫌がらせに人数確認をしていた人が怒りだした。
「これ、他の課のまであるじゃない!」
「私の送別会に来たい人はここだけじゃないのよ。やってくれるわよね?」
「皆さん、出席されたい方がたくさんいらっしゃるみたいですし、私、頑張ってやらせていただきます」
「そう。かんばってね」
「こんなたくさん」
「いいんです。皆さん、楽しんできてください」
私は気にしないふりをして、作業にとりかかった。
なんとか大急ぎで頑張ってみたけれど、やっぱり終業時間を過ぎても終わらなかった。
「皆、行くわよ」
中井さんはみんなに声をかけて、フロアから颯爽と出て行った。
「ごめんね。高辻さん」
「いいえ。私が引き受けた仕事ですから、気にしないで下さい」
閑井さんは幹事を任され、もういなかった。
誰もいなくなったせいか、広いフロアにはコピー機の音が大きく感じた。
黙々とコピーをして、終わったものをずらりと並べた。
後はこれを綴じていけば、完成。
「やっとコピーが終わったわ。これだけあると、なんとなく達成感があるわね」
ふう、と息を吐いた。
足音が響いてドアが開いた。
「なにしているんだ」
「惟月さん!」
「恭士さんから、電話があった。仕事が終わらないから、帰らないと聞いたと」
惟月さんは元気がなかった。
恋人が遠くに行くんだから、当たり前よね。
それにしても恭士お兄様は過保護にもほどがある。
しかも、惟月さんに電話するなんて。
「これが終わったら、帰ります」
「一人でどうしてこんな大量に?」
「皆さん、送別会に参加したいとのことでしたし、お引き受けしました」
「お人好しにもほどがある」
呆れられてしまった。
「恭士お兄様には私から連絡します。兄が迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「いや。これだとなかなか終わらないだろう?手伝おう」
「え!?」
「一人でやらせたら、恭士さんに殴られそうだからな」
惟月さんは笑っていたけど、私は笑えなかった。
お兄様なら、やりかねない。
「ほら」
惟月さんはまとめた書類を渡してくれた。
「ありがとうございます。惟月さんはやっぱり優しい人ですね」
「俺が?優しくなんかないだろう」
「覚えてませんか。初めてお会いした日、突然、雨が降ってきて、まだ顔を合わせる前だったのに惟月さんは傘をさしてくださったんですよ」
「ああ。そういえば、着物の女性がいたな。雨に濡れると困ると思ったんだ。けれど、咲妃さんだとは知らなかった」
「知らない人に親切にできるのは優しいからですよ」
惟月さんは照れたように目をそらした。
「手を動かせ。終わらないだろう」
「はい」
惟月さんは長く細い繊細そうな指で綺麗に書類をまとめて、順番に渡してくれた。
二人でやると、早く終わり、運ぶのも惟月さんがやってくれた。
「ありがとうございました」
終わってしまったのが、ちょっと残念な気がした。
「終わったなら、帰るぞ」
「え?」
「送っていく」
「はい!」
嬉しくて、力強く返事をすると、惟月さんが笑った。
「疲れてないみたいだな」
疲れなんて、吹き飛んでしまっていた。
そして、今は仕事を任せてくれたことにすら、感謝したいくらいだった。
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