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第9話 秘書
中井さんは海外支店に行ってしまった。
けれど、海外事業部はいつも通りで、惟月さんも取り乱した様子は一切なく、淡々と仕事をしていた。
どうしたら、あんな表情も変えないでいられるんだろう。
私なら、きっと自分の感情が顔に出てしまう。
皆のお茶のカップをかたづけて、席に戻ると、ちょうど清永のおじ様がやってきた。
「がんばっているね。咲妃ちゃん」
「清永のおじ様」
「この間、惟月が夕飯をごちそうになったときいてね」
「父が惟月さんを引き留めてしまって」
「いやいや!」
嬉しそうにおじ様が手を振った。
「惟月が咲妃ちゃんとの婚約の話を進めてもらっていいと言っていたそうじゃないか。高辻社長から電話があってね。とても喜んでいたよ」
「父が―――」
「それで考えたんだが、惟月の秘書として一緒に働いた方がお互いを知れていいんじゃないかと思ってね」
惟月さんの嫌そうな顔が目に浮かんだ。
「いえ…。惟月さんにご迷惑ですから」
「いやいや。ちゃんと惟月も了承したことだからね」
「惟月さんが?」
すぐには信じられなかった。
けれど、おじ様はこの話を早く進めたいのか、海外事業部のフロアを見回すと間水さんを呼んだ。
「間水君」
「はい」
「咲妃ちゃんを惟月の秘書にするから、後は頼んだよ」
「えっ…惟月の…いえ、専務の秘書ですか?専務はなんて?」
「惟月はいいと言っていたが」
「そうですか」
間水さんはどこか、納得がいかない顔をしていたけれど、頷いた。
中井さんとのことを知っているなら、当然の反応だった。
おじ様はきっと知らない。
「あの、ご挨拶をしてからでも構いませんか?お世話になりましたから……」
間水さんはハッとして頷いた。
「ああ、そうだね」
ほんの少しの間だったけど、仕事を教えていただいた閑井さんやお弁当を一緒に食べていた人達にお礼をいい、同じ会社にいるのだからとお互いに言って別れた。
「ずいぶんと仲良くなったんだね」
そう言った間水さんは今まで私のことなど、目に入っていなかったようだった。
清永のおじ様に連れられ、惟月さんが働く専務室に入ると、嫌な顔をされるのでは?と思っていたけれど、そんなことはなかった。
「今日からよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
普通の対応で業務的だけど、最初の頃よりは好意的でホッとした。
おじ様はすぐにいなくなり、私は用意された机にあったファイルやメモ書きを見て、邪魔にならないようにできそうなことからしようと決めた。
さっそくお礼状を書いたり、時節の挨拶状を書き、黙々と仕事をしていると、惟月さんから声をかけてくれた。
「わからないことがあれば、聞いてくれ」
「はい。あの、藤枝様の新事業祝いですけれど。先日、藤枝様はゴルフがご趣味でご一緒したのですけど、花粉アレルギーで花は避けたほうがよろしいかと思います」
「そうなのか?」
「はい。日持ちのするお菓子などになさいますか?甘いものが藤枝様もご家族もお好きですから」
「それで頼む」
「はい」
藤枝様がお好きなお菓子の注文をし、手配した。
その後は会話もなく、午前の仕事が終わった。
「お昼は?」
「私はお弁当です。惟月さんはいつもどうされているんですか?」
「社食だな」
「あ、あの!それなら、明日からお弁当を作らせて頂きたいのですけど。その、ご迷惑でなければ」
「大変だろう?」
「大丈夫です!」
力強く答えると惟月さんは笑った。
「それじゃあ―――」
惟月さんが返事をしかけた時、コンコンとノックの音がした。
「惟月」
間水さんが入ってきて、私をチラッと見ると、目をそらした。
「話がある」
「ああ」
なんの話なのかはお互いにわかっているみたいで、私には聞かれたくないのか、二人は部屋から出て行ってしまった。
お昼休みが終わり、戻ってきた惟月さんに変わった所はなく、淡々と仕事をしていた。
「咲妃さん」
「はい!」
「帰りは送るから、少し待っていてほしい」
まさかの言葉にすぐに返事が出てこなかった。
清永のおじ様に言われてのことかもしれない。
それでも、私は嬉しくて頷いた。
「はい。待ってます」
「ああ」
待っている間、机に置かれた仕事のファイルを見ているふりをして、仕事をしている惟月さんを見つめていた。
整った顔立ちに茶色の髪と瞳。
日本人離れをした容姿だった。
どれだけ見ていても飽きないくらい綺麗な顔をしている。
昔から、惟月さんはモテていた。
パーティーに行っても女の人が寄ってきていたけれど、その場では私に遠慮して女の人達は挨拶程度だった。
でも、普段はきっと違うんだと思う。
私は毎日、与えられたままの環境で何不自由なく暮らしていたから、惟月さんとそのまま、結婚するのだろうと思って、何もしてこなかった。
今はそれを後悔している。
人の気持ちは与えられるものじゃなかったのに。
惟月さんの考えはわからなかったけれど、今はもっとお互いのことを知りたい―――そう思っていたのは私だけじゃないはずだった。
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