第一話 『良いときも、悪いときも』

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第一話 『良いときも、悪いときも』

 アリア・ルージュという名前の女性を、僕が忘れることは一生ないだろう。  首都の中央にある王宮とそれを取り巻く高い建物群が、民家から立ち昇る煮炊きの煙になり、やがてなにもない牧草地へと姿を変えていく。  僕、シャルロット・ホワイトは首都中央発の乗合オーブの窓から、その光景を眺めていた。  魔王が遺した魔法と言う技術が人々の生活に持ち込まれてから五十年。魔法は学問となり、やがて技術となった。  そんな魔学技術と、その道具である魔機を管理する<王立魔学技術局>の局員候補生にこの春選ばれた僕は、修了過程の仕上げとして現場での実務に携わることになった。  窓に映る、白いローブを身に着けた自分の姿が誇らしい。候補生を含む局員だけが袖を通すことが許される制服だ。  そしてこの新人の通過儀礼を無事に終わらせることができた者だけが、これからも白いローブを着続けることが許される。  同期生の中では研修で良い成績を残せないことを心配する声や、仕事内容についていまから愚痴をこぼす者もいたが、僕の胸は期待に躍っていた。  魔学省所属のアカデミーに入学してから足かけ八年、人々の生活の礎となるこの技術に携われるこの日を、ずっと待ち望んでいたからだ。  この国、<ヨクト王国>の西の端にある小さな田舎町マートック。そこが僕の配属地だ。  終点についた乗合オーブを降りてからさらに馬車に揺られてたどり着いたのは、マートックの郊外にある小さな目抜き通りだった。  道の両側には石造りの家々に紛れるようにして商店や宿屋、酒場が軒を連ね、さらにはそれぞれの玄関先に市場の屋台まで建ち並んでいる。 「どうもありがとうございます」馬車を降り、僕は御者に言った。 「いいさ、こっちも久しぶりの客だったからな」と、御者。「そのローブ、お嬢ちゃんは中央から来たのかい?」  中央、というのは<ヨクト王国>の首都の通称だ。地理、文化、そして魔学技術の中央としてそう呼ばれている。 「はい。<王立魔学技術局>の者です。ところで、<ルージュ工房>の場所はご存じですか? この町にあると訊いたのですが……」 「ああ、知ってるよ」 「ここから遠いでしょうか?」 「いや」と、御者は馬車を停めた道の先を指さした。「この目抜き通りをまっすぐ行った先だ。通りが終わると丘が見えるんだが、その上にあるよ」  僕がもう一度お礼を言うと、御者は屋台の軒先がひしめく目抜き通りを巧みな手綱さばきで馬車を操り去っていった。それを見送ると、僕は目抜き通りを進んでいった。  通りの端に出た僕は、目の前に広がる光景に息を呑んだ。  頂上が雲を突くほどの標高を誇る雪山を背景にして、小高い丘の頂上に一本の巨木がそびえ立っている。大きい……ひょっとすれば、中央にある高層建築物にもひけをとらないのではないか。  そんな巨木がある牧草地の丘の頂上付近に一軒の民家が建っている光景は、幼い頃に読み聞かせてもらった絵本の挿絵のようだった。  自然と人の住家とが共存しているのは、魔学技術で発展した中央で生まれ育った僕の目には新鮮に映った。 「あれかな?」口にした言葉が太陽の下で温まりはじめた空気にとけていく。  目貫通りを抜けて曲がりくねった砂利道を登ると、目の前まで来た家が遠目から見るよりもずっと大きいことがわかった。  横幅の広い二階建てで、切妻屋根の端は地面に触れそうなほど低い位置にある。石造りでところどころ苔むしてはいるが、ひび割れたりがたついたりしていないところを見ると、風雨に負けない頑丈な建物のようだ。  正面のドアは木製で、僕はそのそばの壁にかかった看板を見てほっと息をついた。 <ルージュ工房>  看板にはそう書かれている。中央から出た辞令の配属地はここで合っていた。  ノックをしてみるが、中からはなんの物音もしない。  胸に膨らんでいた期待がしぼみ、僕は急に不安をかきたてられた。その原因のひとつになっていたのは、僕をここへ送り出したアカデミーの教官の言葉だった。 〝<ルージュ工房>には気をつけろよ。あそこの主人は魔女なんだ〟  教官のそんな言葉が冗談なのか本気なのかはわからないし、些細な噂が大きくなっただけなのかもしれない。そもそも魔王統治下の時代ならまだしも、それから長い年月が経ったこのご時世に魔女だなんて……  それにこれから会う人物は魔学と魔機に携わる技術者として人々のさらなる発展を目指す同志と言えるではないか。わかり合えないはずなどない。  僕は意を決してノブに手をかけた。ドアはあっさりと開いた。 「すみません」と、中を覗きこんでみるが誰もいない。  内部は薄暗かったが、家の外観と声の反響具合からみて大きな部屋であることがわかった。  勝手に入ってしまっていいものか、入口付近で迷っていると、どこからともなく木の軋む音が響いてきた。  思わず身を固くして立ち尽くしていると、家じゅうの木戸がいっせいに開き、窓という窓から太陽の光が差しこんだ。  思わず目を閉じた僕は、まぶたの裏で光の明滅がおさまるのをじっと待った。  ようやく落ち着きを取り戻してゆっくと目を開けると、部屋の中央にひとりの女性が立っていた。  まず目についたのは、炎のように真っ赤な相手の髪だった。髪は不揃いな長さで、そのひと房が白い肌がむき出しになった肩口にかかっている。彼女は丈の短い薄手の肌着の上下を身にまとい、すらりと伸びる脚をのぞかせていた。  僕の姿を目にとめ、女性の眉間にしわが寄る。その下にある瞳も、髪の毛と同じくらいあざやかな赤色をしている。 「し、失礼しました! その、僕は怪しい者ではありませんでして。なんと言いますか、その――」 「ううん……」女性は咳払いのように唸ると、「チェンジで」 「なにがですか!?」 「え? そういうお店じゃなかった? だったらなにさ?」 「ですから、僕は今日から――」 「悪いけど新聞なら間に合ってるよ。ビール券だけそこに置いてとっとと帰んな」 「追いはぎみたいな断り方ですね……そうじゃなくて!」僕は姿勢を正した。「本日より実地研修でこちらにお世話になります<王立魔学技術局>のシャルロット・ホワイトと申します。よろしくお願いします!」  女性の表情は怪訝そうなままだ。  声を張り上げたつもりだったが、うまく聞き取ってもらえなかったのか。僕は挨拶を繰り返そうと、もう一度大きく息を吸いこんだ。 「え? 宗教の勧誘?」 「違いますってば!」肺に溜めた空気が無駄に終わる。「あの……アリア・ルージュさんですよね。<ルージュ工房>の?」 「ああ、それはあたしだけど……え、ちょっと待って」  ルージュさんは自分の額を押さえると、もう片方の手を押しとどめるように僕に向けた。彼女の大きく開いた袖口から、服の中が見えそうで気が気でない。 「そういやそんな話してたっけ……いや、でもあの時は酔ってたわけだし。でも、あいつが酒の席だろうがなんだろうが自分に有利な約束を反故にするはずもないし……あー、くそ。余計なこと言うんじゃなかった」 「あの、ルージュさん?」  僕が訊ねると、ぶつぶつと独り言を口にしていたルージュさんは顔をあげた。 「よし、ギャルちゃんって言ったね」 「いえ、シャルです。シャルロット――」 「オーケイ、シャルちゃん。研修は無事終了だ」そう言ってルージュさんは歩み寄ると、僕の肩にぽんと手を置いた。「あたしから教えることはもうなにもない」 「まだなにも教わってないです」 「きみはもう一人前だ。胸を張って故郷に錦を飾るといい」  ぐっと右手の親指を立てるルージュさん。にっかりと歯を剥いているものの、その目は少しも笑っていない。 「いやいや、困りますよ! ここで現場のなんたるかを学ばせてもらわないと。僕が一人前だと認められるかどうかの大事な研修なんですから。それに、ルージュさんだってまずいでしょ、修了課程をでっちあげたりなんかしたら、この工房の評判にも響きますよ」  僕のこの言葉にルージュさんもさすがに動揺したようだ。 <魔学技術局>は王国中央の管轄だが、地方での仕事となるとその管理は傘下である組織や団体に委託している。それはたとえば領地内の支部であったり、別の技術団体だったりする。<ルージュ工房>はその別の技術団体に属しており、完全独立資本の工房でもあるが、中央に逆らおうものなら仕事そのものがまわってこなくなる恐れもある。  僕の説得が功を奏したのか、ルージュさんはしばらく考えこむと、頭をがしがしと掻きながら深いため息をついた。 「わかった。ちょっとここで待ってて」  そう言ってルージュさんは部屋の一角にある階段を登っていった。先ほどと同じ木の軋む音が僕の耳に届いてくる。どうやらこの階段が音の発生源だったようだ。 「いいか、勝手にそのへんの物に触るなよ」階段の途中で足を止めてルージュさんが言う。 「わかりました」と、僕。  ルージュさんはふたたび登りはじめたが天井付近でまた止まり、僕の頭上から顔をのぞかせた。「絶対に触るなよ。爆発するぞ」 「わかってますって。いったいなにが爆発するんだか……」  ルージュさんが階上に姿を消し、僕はがらんとした部屋にひとり残された。  大きな部屋だった。  奥に鎮座している大きな書き物机が、窓から差しこむ陽の光を浴びている。  それ以外の調度品はといえば、古書が乱雑に収まった本棚、溶けた蝋燭の刺さる燭台が乗った作業台、それから山積みの羊皮紙や魔術書ぐらいで、爆発しそうな物は見当たらない。せいぜい着火式のランプがあるくらいだ。  壁のひとつにはご当地の土産物か、ペナントがところ狭しと貼ってある。  隣国のヤミーシャナ、極寒の地アローミ、火山の軍国ゴマーシュ。それに温泉観光地として有名なエイミータのペナントまで飾ってある。  二階からはルージュさんが誰かと言い争うような声が聞こえてくる。相手の声が聞こえないことから、念話用の魔機で会話をしているのだろう。  この念話用魔機が世に出てから、僕らは遠く離れた場所にいる人とも話すことができるようになった。同時にそこらじゅうで、見えない誰かとのお話に夢中になる通行人同士が肩をぶつける事態もあとを絶たなくなったが……。 「待たせたな」  そんなことを考えていると、念話を終えたルージュさんが階段を降りてきた。  肩には木製の杖を担いでいる。  長い杖だ。ルージュさんの身長はけして低くはなかったが、杖の先端はそれよりも頭ひとつ分高い位置にある。杖の三日月状の先端、描いた弧の内側にこぶしほどの大きさはあろう赤い宝石が浮いている。  身支度を整えたルージュさんはむき出しだった肩に短めのマントを羽織り、首には銅製と思しきフレームのゴーグルを提げていたが、履き替えたショートパンツの丈は相変わらず短く、脚が露わになったままだ。 「なんだか目のやり場に困るなあ……」 「なんだって?」ルージュさんが訊ねる。 「あんまり女性が素肌を人目にさらすのはいかがなものかと」 「自分の齢を考えろって言いたいのか?」 「そういうわけじゃ……」 「恰好で言えば、シャルだってヘンテコなローブ着てるじゃないか」 「こ、これは<魔学技術局>の由緒ある制服です!」 「だったらこの格好だって<ルージュ工房>の由緒ある正装だ」 「それ、いま思いついたでしょ」 「とにかく、この格好はあたしのポリシーだ。それに齢のことで言えばな、近所のロザリンドちゃんなんてあたしより二十も年上だけど、いまだに生足さらして頑張ってるんだぞ」 「誰ですかそれ?」  僕の問いかけを無視して、ルージュさんはしてやったりとふんぞり返った。たすきがけにした革カバンの肩紐が食いこみ、胸元が強調される。  素足だったルージュさんはそれから部屋の片隅に置いてある革製のブーツを履いた。  軽やかだった彼女の足音が、途端に武骨で重々しいものに変わる。 「ほら、行くぞ」 「行くって、どこに?」 「今朝は近所で修理の依頼が何件かあるんだよ」  そう言うなり、ルージュさんはさっさと外に出てしまった。僕は慌ててそのあとを追った。  これが、僕とルージュさんとの出会いだった。
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