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プロローグ 終わりの始まり 惨の参
「まったく、とんでもないことになりやがったぜ!」
拓勇アズマは登別温泉風景林の中を疾風の如く駆け抜けながら、忌々し気に吐き捨てた。
周りには鬼、鬼、鬼、鬼だらけ。せっかくの温泉地が鬼どもの観光地に成り果ててしまっている。
鬼どものグルメ温泉ツアー。人間どもを美味しくいただいた後は、現地住民の血の海で作られたお風呂をご堪能ください。
まったく、冗談にもなりはしない。先刻から耳に入ってくるのは悲鳴やら絶叫やらが混じった不快な雑音。助けようにも鬼どもの数が多すぎて自分にはどうすることも出来ない。不甲斐なさだけが腹底から湧き上がり、鬼と自分に対する怒りで形相は険しくなる一方だった。
不意に、目の端に鬼に襲われている母娘の姿が映った。
アズマは胸の内に一瞬だけ過った正義心を振り払うと、母娘の悲鳴から逃れる様に先を急いだ。
百戦の魔法使いだなんて呼ばれても、しょせんオレはこの程度の男だ。
心の裡でごちると、吐きかけた呪詛を寸前で堪えた。
「お願い、子供だけは堪忍して!!!」
先程の母親の叫びが、アズマの後ろ首を掴み上げた。
アズマの脳裏に一人の女性の姿が過る。
名前は冴子。とある事件の際に知り合った女性で、魔障に襲われた際に膨らんだお腹をかばうように同じ言葉を叫んでいた。
結局、アズマは彼女を救うことが出来なかった。それが新たなトラウマとなり、深い傷となって未だに魂に深く刻まれているのだ。
刹那、アズマの脳裏に銀色の少女の姿が過る。
「約束して。誰も『救』わないって。そんな意味のないことする暇があったら、とっとと作戦を遂行してちょうだい。もう一度だけ言うよ。『救』うなんて非生産的な行いはただの自己満足に過ぎないってことを肝に銘じておいてよね」
アズマは登別の地獄化が始まる前に、繰り返し銀色の少女から執拗に釘を刺された。
ひとを救うことが無意味で非生産的な行いであると。そんな暇があればとっとと与えられた役割を全うしてちょうだいとも何度も云われた。
あー、分かった、分かった。頭の中でそう何度もがなるんじゃねぇや。
アズマは発動していた韋駄天の魔法のベクトルを反対方向に向けた。足元が摩擦で土煙を上げ、多量の土砂が遥か上空を舞った。
次の瞬間にはアズマは母娘の目前まで跳んでいた。
間に合った。
アズマはこみ上げる笑いを抑えようとはしなかった。彼の目には、残酷な笑みを浮かべた鬼の姿がハッキリと映っていた。
鬼は幼い少女を片手で鷲掴みにすると、一口で丸呑みにしようと口元まで運ぶ。大きく裂けた口から鋭い牙が剥き出しになり旺盛な食欲を隠す素振りも見せず、ダラダラと多量の涎を滝のように地面にこぼしていた。
それは、母親の絶叫と少女の悲鳴が上がるのとほぼ同時だった。
一秒の差でオレの勝ちだ、ざまを見やがれ、このクソ鬼野郎めが!!!
アズマの右手に一羽の小さな鳥が現れた。それは一瞬にも満たない速度で大きな不死鳥の姿に変貌し、巨大な炎の塊と化した。
右手に発現した不死鳥を、アズマは少女もろとも鬼に解き放った。
「煉獄魔法『フェニックス』!!」
獄炎を纏った不死鳥が周辺にいた鬼どもを巻き込んで一直線に飛翔した。
不死鳥が飛び去った後には鬼どもの灰と化した躯しか残らなかった。
ぽかんと、呆然とした表情を浮かべて地面に座り込む一人の少女の姿を除いて。
アズマの煉獄魔法『フェニックス』は魔障や魔力を焼き尽くす魔法である。
よって、一般人がこの魔法を受けたとしてもただ風が通り過ぎた程度にしか感じられないのである。
母親は娘に駆け寄ると、泣きじゃくりながら我が子を全身全霊の愛情で包み込んだ。
アズマは二人の前に歩み出ると、温泉街の方向に指し示し云う。
「いいか、助かりたければオレの云うことをよく聞け! 温泉街に小さな神社がある。湯沢神社といったか? そこに逃げ込め。鬼どもは神社仏閣には手出しできないようにできている。そして一時間、たった一時間でいい。生き延びろ。そうすれば明日からもとの生活を送れるようになる」
最後に「後ろを振り返らずにただ走れ!!」と云うと、アズマは母娘から背を向けた。
母娘はアズマに迫る鬼どもの大群を見ると、小さく悲鳴を上げる。
「悲鳴を上げている暇があったら走れ!! オレもいつまでもつか分からん! とにかく走れ!!」
母親は娘を抱きながら何度も頭を下げると、温泉街に向かって駆け出した。
母の胸に抱かれた娘がアズマの背中に向かって一言「ありがとう、おじちゃん!」と叫んだ。
アズマは振り返らずに片手を上げてそれに応えた。
「そこはお兄ちゃんと呼んでもらいたかった」ポツリと呟き、アズマは肩を少し落とした。
母娘の気配が消え去るのを確認すると、アズマは煙草に火をつけて大きくひと吸いし、肺の底から煙を吐き出した。
「リンちゃん、やっぱりオレには無理だよ。無意味だって分かっていても救わずにはいられねえわさ」
数多の鬼が獰猛な呻き声とともにアズマに迫りくる。
アズマは吸いかけの煙草を捨てるとほくそ笑んだ。
「だって人間だもの。仕方ないわな」
アズマはそう呟き、再び右手に不死鳥を宿らせるのであった。
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