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わたしの部屋の冷蔵庫にはジェーンがいる。
わたしは五時間の居酒屋でのバイトを終えて、この寂しいアパートの一室に帰る。わたしを出迎えるのは、静まり返った六畳間と、古い畳と煙草の香りだ。わたしは後ろ手に施錠して、鞄を床に落とし台所から離れた部屋の隅にある、くすんだ緑色の冷蔵庫の前まで行って、おもむろに扉を開けた。灯りのついていない薄闇に浸された部屋の中に、一筋の光が零れ出す。
皮膚の形を自覚させる冷気を顔と手に感じ、無機質な白い光が浮かび上がらせる痩せた顔を目にするとわたしはああ、帰ってきた、と思う。
「ただいま」
凍り付いた睫毛は長く、ひび割れて色を失った唇は渇いている。通った鼻筋に、まっすぐで細い眉毛、ストレートの黒髪は切りそろえられている。窮屈そうに折り曲げた骨と皮だけの身体を包む黒いTシャツとグレーのスウェットはくしゃくしゃだ。
その目が開き、真っ黒な双眸にわたしが映る瞬間、わたしは息を吹き返す。
やっと呼吸を許される。
「ああ、おかえり」
掠れてほとんど呼吸の音に掻き消されている彼女の声が鼓膜を揺らした。
わたしの冷蔵庫には、ジェーンがいる。凍てついた冷蔵庫の女が。
「ビール飲む?」
「ん、気分じゃない。強いのがいい。ウォッカとかある?」
「あるよ」
ジェーンは酒飲みなので、わたしはつられて飲むようになった。女のくせに酒を飲むなという父の声が耳に蘇るが、この六畳間の中ではわたしはその声を平然と無視することができる。何にも怯えることはない。薄闇の中を泳ぐようにわたしはもう一台持っている冷蔵庫に行き、冷凍室からきんきんに冷やしたウォッカの瓶と、同じく冷えて皮膚に張り付くグラスを二つ出し、作っておいた氷をそれぞれに四つ入れて、無色透明の酒をそこに注ぎ入れた。すべての準備を整えて、すっかりなじみになった香りを漂わせるそれを手に、緑の冷蔵庫の元へと戻る。
「はい、どうぞ」
「ん」
腕を動かしづらくなっているジェーンにグラスを持たせてあげるのも慣れたものだ。そうしてわたしたちは、冷蔵庫がこぼす灯りに照らされて舌を焼くようなロシアの酒を飲む。つんと鼻に抜けるアルコールの強さが、ひとくち飲み下すごとに喉を焼く。胃の形を浮き彫りにする冷たさとじんじんと熱を持つ喉、その正反対さにわたしは生を感じる。
ジェーンは膝でグラスを挟むようにして、少しずつ酒を啜っている。その横顔は信じられないほど完璧なバランスを保っている。
わたしが彼女と出会ったのは、一年前。大学の授業と、週五日のアルバイト、親からの電話、なじめないゼミに疲弊して毎日泥のようになり、部屋に布団を敷くこともできなくなったときだ。固い畳に額を擦りつけて、自分の行く先が深い奈落のような気がして、恐ろしくて胃がざわざわして、頭の先まで冷たくなる感覚に喘ぎ、口の端から呻くような泣き声を漏らしていた。いっそのこと、すべてが終わりになってしまえばいいのだと思い至って、顔を上げたわたしの目の前で、この部屋を借りたとき前の住民の置き土産としてすでに部屋にあった緑の冷蔵庫の扉がゆっくり開いていった。
白い顔の痩せぎすの女が、窮屈そうに身体を丸めて、そこに収まっていた。
わたしは驚くべきだった。恐怖するべきだった。それでも、「死ぬの」という低い掠れた声が、わたしにだけに向けられた声はわたしに呼吸を許した。生きていることを許した。咎めるような調子でもなかったただの問いかけに、わたしは息を吹き返した。
「今のバイトも潮時かなって」
「ふうん」
「別のとこで働くよ、きっと」
「いいんじゃない。……芙美子、たばこ」
わたしの話を真剣に聞いてくれたことのないジェーンにわたしは笑って、彼女のために灰皿を取ってきてあげる。青色のメンソールたばこの箱から一本抜き出してくわえると、火をつけて思いきり一口吸い込んだ。もはや煙に慣れ切った身体に、眩暈は訪れもしない。
「はい」
そっと近づいて、ジェーンのうすい乾いた唇にそれをくわえさせてやる。立ち上る紫煙が夜の影の中に融けていく。
わたしに煙草を教えたのもジェーンだった。節約しないとな、と思いながらわたしは本数を増やし、口に入るものを減らすのだ。
この部屋に響くのは、冷蔵庫の低い唸り、わたしの声、畳をする音、ジェーンのいい加減な相槌だけ。完璧なバランスで、この薄闇の部屋は保たれている。ジェーンが灰を落としそうになるのを見計らい、ぽとりと墜落した灰を灰皿で受け止めてわたしは満たされる。酒で狭まった視界の中でジェーンの横顔が揺らめいていた。
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