冷蔵庫のジェーン

2/5
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
 わたしは実家と一定の距離を保っている。女に学問は必要ないと喚き、酒やたばこをはじめたなんて知ったら卒倒するか自分の灰皿でわたしの頭を殴打しかねない父。父の機嫌を保つためだけに息をひそめ、顔色を窺い、娘を生贄にする母。父の教えを信じて育ち、結婚して第二の父となり果てた兄。実家にはそんなものだけが今か今かと待ち構えている。  わたしは高校を出て働き、入学金と当面の生活費を貯めながら勉強をして今の大学に入った。県外の遠い遠い大学にしたのはできるだけ距離を置きたかったからに他ならない。奨学金を申請して、生活費はアルバイトを掛け持ちしてなんとか繋いでいる。奨学金を切られないために成績を一定に保たねばならず、わたしは疲弊していった。  ただ逃げたかった。逃げるには力がいる。  それでも、実家からの電話には愛想よく応じるし、お盆や年末には顔を見せるといって帰る。ただ帰るといっても、条件を見極めて帰るのだ。でなければわざわざ袋叩きにされに行くようなものだ。  台所に母と並んで人数分の食器を用意する。リビングでは父と兄が大きな声でげらげら笑っている。うすい扉一枚隔てただけで、向こうとこちらはまるで違う世界のようだ。兄嫁はもはやこの家に近寄りもしない。わたしと母の間に会話はなく、母は落ちくぼんだ目を手元に落としたまま、意識的にすべてをシャットアウトしていた。  母は諦めている。そしてわたしは、母に求めることを諦めた。守ってもらうことも、愛してもらうことも、慈しんでもらうことも。わたしは母に倣い、すべてから目を閉じ、耳を塞いで口を閉ざし、己の心の中に逃げた。  母がまな板の上で刻むネギの音は懐かしく耳に馴染んだが、郷愁とは違う、隠してしまいたい己の傷口をこじ開けられているような心地がした。その音は、震えた母の「あんたは逃げられていいわね」という言葉を耳の内側に呼び起す。  台所の窓の擦りガラスに散らばる星の模様に詰まった埃や、油汚れの残るガスコンロ。紐を継ぎ足した照明器具は、ここがまるで墓場のように思わせる。ここには押し殺して、ないものにしたかつての母の、そしてわたしの一部の亡骸が転がっている。  いつか、わたしはここへ帰って来なくなるだろう。己の人生が確かだと思えたなら。そんなときが来るのか不安になったりもするが、あの部屋のジェーンのことを考えると、わたしは不思議と大丈夫だと思える。 「こんにちはあ!」  玄関から張りのある低い声がして、わたしはぱっと顔を上げた。 「義則おじさん。こんにちは。お久しぶりです」  日に焼けた顔を目いっぱいくしゃくしゃにして笑いながら、義則おじさんは「芙美ちゃんだ。おっきくなったね」と言った。  義則おじさんは父の兄であり、この家で唯一父と兄が強く出ることができない人間だ。彼を前にすると、父も兄も女に勉強は不要と口することができなくなり、家事を妻たちに押し付けることを恥じ入るようになり、わたしたちに人生があることを認めざるを得なくなる。  この叔父が来ることが確定しているときだけ、わたしはこの墓場に戻り、かつてのわたしの亡骸を憐れんで供養することができる。そうしてわたしは、ここに二度と足を踏み入れなくなるいつかのために片付けを進めるのだ。 「芙美ちゃんはえらいねえ、働きながら勉強してお金貯めて大学に入っちゃったんだろ?」 「いやおれは寝耳に水だったんだよ」 「そりゃそうだけど、芙美ちゃんもう二十歳で大人なんだからさあ。自立心があって結構だろ。こういうとき親はどんと構えて見守ってやんなきゃ」  手ずからわたしにビールを注いでくれながら、義則おじさんは穏やかに微笑んだ。精悍な顔立ちは昔から変わらず、均整の取れた骨格を持ち、まだ黒々としている髪を後ろになでつけている。幼いころ、わたしはこの叔父に淡い初恋のようなものをしていたことがある。 「若いうちからしっかり自分で考えて動けるって大したもんだよ。芙美ちゃんはえらい。なかなかできることじゃないんだから」  わたしはこの叔父に褒められるのが嬉しかった。じっとりと冷たい視線が家族から向けられているとしても胸を張って誉め言葉を受け止められる。この家は息苦しい深海のようなものだったがこの叔父は淀んだ水を循環させてくれる。  不意に、ジェーンのことを思い出した。ひとり、あの緑色の冷蔵庫に収まっている、細い肢体を。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!