第一章 学び舎に八重桜が笑む

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第一章 学び舎に八重桜が笑む

「前に詰めて座って下さい」  入学式から1週間が経っても浮つきが抜けない教室で、担当講師が鋭く声を張った。  後ろの方にいた学生は渋々と席を立ち、前の席に移動する。私もそのひとりだ。  ふと、隣の席に目をやると、男子学生と目が合ってしまった。  慌てて目をそらすと、パスケースの学生証が目に入った。  一ノ瀬 掃部 「いちのせ、かもん」  氏名は、そう読めた。  読んだはいいが、声に出してしまった。  講義は行われずに、火曜日3限・茶道史の授業は終了した。 「野村さん、ですよね」  教室を出て、呼び止められる。先程の男子学生だった。 「ありがとうございます」  彼は深々と頭を下げた。何のことだろうと思ったら、彼はすぐに頭を上げる。 「名前を読んでもらえたのは、初めてだったんです」 「そうですか」  それは本人にとって嬉しいことだ。  ちなみに、私の名前は湯花奈(ゆかな)だが、漢字の組み合わせが珍しいせいか、すんなりと読んでもらえない。ヒントなしの一発で読んでもらえたときの嬉しさはよくわかる。  彼の名でもある掃部という字は「かもん」とか「かもり」と読む。  一ノ瀬掃部という名は、利休七哲(りきゅうしちてつ)の瀬田掃部に似ているから……なんて、初対面の人には言えない。  利休七哲とは、利休の茶道を受け継いだといわれる人達で、瀬田掃部の他には、古田織部、細川忠興、高山右近、蒲生(がもう)氏郷(うじさと)牧村(まきむら)兵部(ひょうぶ)芝山(しばやま)監物(けんもつ)がいる……なんて、もっと言えない。  一ノ瀬掃部の、大きくてくりっとした瞳に見つめられたら、オタク知識をひけらかしてドン引きされることが怖かった。 「じゃあ、改めまして。歴史文化学科1年の一ノ瀬掃部です。どうかよろしくお願いします」 「私こそ、よろしくお願いします。日本文学科1年の野村湯花奈です」  では、と別れ、私は建物を出た4限まで時間があるから、売店でテキストを買ったり図書館に行くつもりだ。  キャンパスのソメイヨシノはすっかり見頃を終え、今は八重桜が(しと)やかに枝を揺らしている。  薄紅色の花は、まるでピンク色のブールドネージュのようで、想像しただけで口の中がほろほろと甘くなる錯覚を覚えた。抹茶で一服したい気分だった。
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