ep.5 五人目のプレイヤー

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 どこまでが現実でどこまでが夢なのか、最早その境目さえあやふやになっていた。気付けベッドの上で眠っていて、伸びてきた手に触れられそうになり、飛び起きる。  そこには服を脱いだままの政岡がいて、固まる俺に、やつは伸ばしかけた手を引っ込めた。 「尾張、風呂……入るか?」  恐る恐る、まるで腫れ物にでも触れるみたいに尋ねてくる政岡に、輪郭のあやふやだった記憶が全部一気に蘇る。まるで別人のように人を無茶苦茶に犯しておいて、なぜこの男はこちらの反応を伺うように尋ねてくるのか。理解できなかった。  長時間開かされ、挿入されたままだった下腹部の違和感は特に酷い。汗やらなんやらでベトベトになった体は今すぐ洗い流したかったが、こいつに従いたくなかった。  答える気にもなれなかった。乾いた喉、黙っていると「尾張」と肩を掴まれる。瞬間、全身に電流でも流れたみたいに体が震えた。 「……っ、触るな……っ!」  それは、咄嗟のことだった。思いっきり政岡の手を振り払えば、乾いた音が響いた。  やつは俺の声に、行動に、まるで傷ついたような顔をするのだ。それもほんの一瞬のことだった。やつは、唇を噛み締め、そして、俺の手を取って強引に抱き起こされる。 「……っやめろ、さわるな、触るなって」 「このままじゃ、お前が気持ち悪いだろ」 「だれの、せいだと……っ」 「……ああ、俺のせいだな」  こいつ、と睨むが、支えられた下半身に力が入らず、そのまま座り込みそうになるのを政岡に抱えられる。  早々簡単に抱えられるほど軽くはない、それなのに、こいつは躊躇も遠慮もなかった。 「おろ、せ……っ、政岡っ」  子供のように抱っこされ、全身が熱くなる。やつに触れられるだけでも嫌なのに、それなのにあいつは髪を引っ張っても、俺を無視して脱衣室まで向かうのだ。  脱衣室で降ろされたかと思えば、やつによって辛うじて身につけていた服も全部ひん剥かれる。やめろと抵抗するが、疲弊しきった体は恐ろしいほど力が入らない。結局されるがままに浴室へと運ばれるのだ。  そして。 「っ、く、そ……」  椅子に座らされ、シャワーヘッドを手にした政岡に体を洗い流される。それだけならまだ、よかった。屈辱であるのは違いないが、まだましだった。けれど、足を開かされ、その奥、まだ異物感の抜けきれない肛門に指を捩じ込まれ、開かれ、シャワーを当てられながら中に残った精液を掻き出される。そんなことをされて平気な顔を出来るやつがいるなら教えてほしい。 「……っ、ぅ……っ」  後処理だとわかっていても。散々触れてきたその手に触れられるだけで行為を思い出し、厭でも意識してしまうのだ。足を閉じようとすることも許されない。明るい浴槽で、やつは服を着てて、俺は全裸で、滑稽だ。  あくまで優しく、中をこれ以上傷つけないようにしてるつもりなのだろう。繊細な行為などと無縁そうなくせに、爪が当たらないように指の腹で内壁を撫でられ精液を拭う指に熱が込み上げる。おまけに、シャワーの水圧が丁度いい。少し強めの水圧が性器に当たるだけで反応してしまう自分のものが立ち上がりかけてるのを見て、血の気が引いた。  それでも、隠すこともできない。くそ、もう、どうにでもなれ。半ばやけくそになりながらも、一分一秒でも早くこの行為が終わることを願った。  そして、ようやく政岡の指が引き抜かれたとき。シャワーを止めたやつに、終わったのかと安堵するもつかの間。  目を開こうとした瞬間、性器に何か触れる。ぎょっと目を見開いたときだ、丁度やつは、人の性器を口に含んだところだった。 「っ! っおい、や、め……っ」  その先は、声にならなかった。性器全体を熱く、濡れそぼった粘膜に包み込まれる。それだけでも恐ろしいほどの快感なのに、歯を立てないように口全体で締め付けられ、先端を硬く尖らせた舌でちろちろと舐められれば頭の奥、収まりかけていた得体のしれないどろりとしたものが溢れ出すようだった。 「っ、や、め……っ、ろ……ッ!」  なんで、こんな、また、やるのか。怖くなって、政岡の頭を引き離そうと掴むが、腰に回されたやつの手に固定されたまま根本まで咥えられればそれだけでも呑まれそうになる。根本から先っぽまで口輪で締め付けられ、頭を咥えられたまま吸われればそれだけで呆気なく射精した。  精液は、ろくなもの出なかった。けれど、やつは尿道に残ったカスみたいな精液を啜り、そして当たり前のように飲むのだ。 「……っ、流石に、もうまともなの出ねえな」 「っ、最悪だ、お前……っ!」 「…………」  政岡は、何も言わない。けれど、怒る素振りもない。唇を拭い、もう一回性器を洗ってくれた政岡に俺も、もう何も言わなかった。  どれほど時間が経ったのだろうか。政岡の手により丁寧に体を洗い流され、再び濡れた体を構わず抱えられそうになり血の気が引いた。 「離せ……っ、おい……」 「そんなんじゃ一人で戻れねえだろ」 「そんなこと……」 「……もう、やんねえから。そんなに怯えんなよ」 「……っ」  なんで、優しくするんだ。もう、優しくする必要ねえだろ。  わけわかんねえ。あんな風に抱いておきながら、同じ顔で大事に触れてくるのだ。俺にはもうこの男が何を考えてるのかわからなかった。  けど、もう俺には抵抗する気力もなかった。結局、政岡のされるがままになる。  体を拭かれそうになり、流石にそれは自分ですると言い、服に着替えて、やつの手を借りて部屋へと戻ってきた。  岩片と俺の部屋にこの男がいるだけでも違和感があるのに、やつは何食わぬ顔して冷蔵庫を扱うのだ。 「尾張、喉は……」 「……いらない」 「けど、そのままじゃ……」 「……いい」  無視したら無理矢理飲まされそうな気がして、敢えて突っぱねれば水の入ったボトルを手にしていた政岡は黙る。そして、それを冷蔵庫に戻した。 「わかった。今日は帰るから、……だから飲めるときでいいからちゃんと喉に何か入れておけ」 「……」 「また会いに来る」  静かに続ける政岡に、思わず体が震えた。顔を上げれば、こちらを見下ろしていたやつと目があい、息を飲む。  どうして。そう、固まる俺の思考を呼んだのか、やつは先程までの怯えたような顔とは違う、諦めたような目で俺を見るのだ。 「ゲームを終わらせるって言ったのはお前の方だろ、尾張」 「用が済んだらお前の好きにすりゃいい」じゃあな、とだけ言い残し、政岡はそのまま部屋を後にした。閉まる扉。ようやく一人になれたというのに、まるで気分は軽くならなかった。当たり前だ。先程までずっとあの男に犯されたこの部屋で休まるわけがない。転がっていた枕を手に取り、壁に投げつけようとして、やめた。 「……っくそ……」  お前は本当に一人じゃてんで駄目だなと嗤う岩片の幻聴が聞こえてくるようだった。ああ、その通りだな。認めたくはないが、身をもってそれを知ってしまった今、もう何も言えなかった。  その日、岩片が部屋に戻ってくることはなかった。恐らく、岡部の部屋に遊びに行ってるのか。この学園でアイツと仲良くしてくれるやつなんてそんなにいないからその辺りだろうとは思うが、戻ってこないならそれでよかった。寧ろ、今だけはアイツに会いたくなかった。  換気しても粘りつくような行為の痕跡までもなくなった気がしなかった。政岡に協力すると言ってしまった手前、敏いあいつには厭でも勘付かれるかもしれない。それでもこうして痕跡をなくそうとしてる自分が矛盾してるようでおかしかった。  その夜、泥のように眠って最悪の朝を迎える。全身の痛みは昨夜よりも悪化してるようだった。  人の気なんて知らず、空はいつも以上に快晴で、射し込む陽気に当てられた頭は厭でも目を覚ます。クソ、ああ、起きたくねえ。ずっと寝てたい。もうどうでもいい。勝手にやってくれ。そんな気分にも関わらず、布団を被って二度寝しようとしても腹は減るし十二分に休息取った体は「もう眠くないよ」と俺を寝かそうとしてくれない。  渋々体を起こし、取り敢えず顔洗って、昨夜ろくに飯も水も飲んでないせいで限界まで空腹の腹に物を入れることにする。  授業を受ける気分にはなれなかったが、最早癖みたいなものだった。取り敢えず制服に着替えて水を飲んで、売店で何か食おうかと部屋を出ようとしたとき、扉がノックされる。  まさか、と、昨日「また会いに来る」と言い残して立ち去った野郎の顔を思い浮かべ、血の気が引いた。  けれど、無視して扉を蹴破られてはたまったものではない。なるべく平静を装いつつ、俺はチェーンをかけたまま扉を開く。  そして、そこには予想外のやつがいた。 「おはようございます、尾張さ……」  扉を閉める。どうやら俺はまだ寝惚けてるらしい。そういや腹減ったと思ったがそんなことなかった気がする、もう少し時間を置いて部屋を出るか。なんて踵を返したとき。  当たり前のようにガチャリと扉が開く。  そして。 「おやおや、ひどいじゃありませんか。いきなり扉を閉めようだなんて。私がもう少しか弱かったら扉に指が挟まって大事故に繋がるところでしたよ」 「って、おい、なんて勝手に……!」 「こんなこともあろうかと尾張さんの鍵をお借りして型を取って合鍵を作っておきました。出来たてホヤホヤですよ」  そう、にこやかな笑みを浮かべる能義の手にはタグがついたままの鍵が握られていて。それは犯罪だろとドン引きしそうになったが元々こいつがやってることは大体法に引っ掛かることばかりだ。 「……通報するぞ」 「どうしたんですか、尾張さん。ツッコミにキレがないじゃないですか」 「悪いが、アンタの相手をするほど暇じゃないんでね。大人しく出ていってくれないか」 「あとその鍵は没収するからな」と取り上げれば、能義は「ああっ」とわざとらしい声を上げる。この反応、間違いない絶対他にもスペアキー用意してる。  学園側に相談して鍵ごと替えてもらわないとな……ではない、今はそんなことを考えてる場合ではないのだ。 「つれないじゃありませんか、私と貴方の仲なのに全部一人で抱え込むつもりですか?」 「俺とお前……強姦野郎と被害者ってことか?」 「あれは合意の上の和姦ではないですか」  こいつ……。あまりにもいけしゃあしゃあというものだからストレートに怒りが込み上げてくるが、この男に常識だの倫理など云々を問かけても馬の耳に念仏だ。ただでさえ疲れてるところに余計な労力は使いたくない。  こいつがわざわざ合鍵作ってまでここに来たというのには用があるからだろう。同じ部屋にいるのだけでも嫌だが、追い出したところで大人しく帰るようなタマとも思えない。 「……それで? わざわざこんな朝っぱらから副会長さんがなんのようだ? まさかただデートの誘いにきたわけじゃないんだろ?」 「ええ、そのまさかですよ」 「……は?」  「せっかくなので一緒にお茶でもいかがですか? いえ、貴方の場合は朝食になるのでしょうか」 「……」  にこにこにこと、白々しい笑顔を浮かべたまま手を握ってくる能義に表情筋が凍りつく。絡みつく蛇のような手を振り払えば、「おや」と能義は目を開いた。さして驚いてもないくせに、驚いたように。 「……本当のこと言えよ。何しに来たんだ?」 「愛しい貴方の顔を見に」 「……能義」 「おお、そんなに怖い顔をしないでください。ちょっとした可愛い可愛い冗談ではありませんか。それにしても、随分と荒れてるようですね」 「お陰様でな」 「素敵な部屋ですね。岩片さんと同室なんでしたよね。今日は岩片さんはいらっしゃらないのですね」 「ああ、あいつは戻ってきてないな。あいつに用があるなら俺じゃなくて他の奴当たった方がいいぞ」 「その必要はありません、私は尾張さんに会いに来たのですから」 「……へえ、そりゃ嬉しいな」 「ならば少しは嬉しそうな顔をしてもらいたいところですが……まあ与太話はこれくらいで」  まるで自室で寛ぐかのようにソファーに腰を落とした能義は、その持て余したように足を組む。視線はこちらを向けたまま、頬杖をついた能義はにこりと微笑んだ。 「尾張さん、貴方会長と何かありましたか?」 「どうしてそう思うんだ?」 「今朝からうちの会長様は荒れに荒れて手がつけれないんです。今補佐の二人に宥めてもらってますがこれまでに見たことないレベルの不機嫌でですね、避難するためこちらに足を運ばせていただいたんですがなんと尾張さんも機嫌が悪いと来た。そこで私のような恋愛のスペシャリストはピンときたわけです。ああ、これはなにかあったなと」 「…………」  俺の場合はお前のその言動のせいでというのが大きいだろうがな。  能義の言うことを一から十まで信じる気は毛頭ないが、能義が政岡に思うところが出てくるようななんらかがあったには違いないのだろう。  あの野郎、と口の中で舌打ちがでた。 「別に、なんもねえよ」  わざわざ言うつもりはなかった。相手は能義だ。弱みを見せたくないというのもあったが、なにより、思い出したくないというのが一番だった。離れたところに腰を下ろせば、能義は「そうですか」と考えるように足を組み直す。 「ああ、そうだよ。残念だったな、期待に添えず」 「でしたら何故貴方はそんなに動揺してるんでしょうかね」 「俺が? ……そうだな、だとしたらアンタが合鍵作ってまで部屋に上がり込んできたからだよ。普通のやつなら大抵驚く。通報しないだけましだと思えよ」 「はは、そうですね。強姦罪に不法侵入となると私もとうとう前科持ちになってしまいますからね。いやはや、貴方の懐の深さには感服です」 「それで、時間稼ぎはできたのか?」  二つの目がこちらを見る。作り物のような、貼り付けたようにすら見える完璧な笑みを浮かべ。 「いいえ、もう少しですね」 「政岡のやつを待ってるのか?それとも、岩片か?」 「親しげにしてるところを見せたいならもう少し近くに座っておくか」そう提案すれば、能義はくつくつと喉を鳴らして笑った。 「いい着眼点ですが……惜しいですね。私が待ってるのはネズミですよ」  そう、立ち上がったかと思えば能義はすぐ隣へと座り直す。デジャヴ。上半身を捻るようにしてこちらへと手を伸ばしてくる能義。頬を撫でられ、咄嗟に身構えたとき、天井の方からみしりと小さな音が聞こえた。  その瞬間。 「……来ましたね」  そう、薄く形のいい唇が動いた瞬間だった。  どこから取り出したのか警棒を手にした能義はそれを天井に向かって投げる。器用に天井へ垂直に伸びたそれは勢いよく天井の一部の板を外した。  嘘だろ、と驚く暇もなかった。 「う、おわっ!!」  ミシミシと音を立て、やがて割れた天井は大きく破れ、そして、巨大なネズミが落ちてきやがった。  丁度テーブルの上に落下してきたのは天井の板と……。 「いててて……って、うおっ!!!」 「探しましたよ、五条。……貴方また私の許可なしにコソコソと尾張さんを嗅ぎ回っていたようですね」  デカいネズミ――もとい、新聞部部長・五条祭のすぐ顔の横、落ちてきた警棒を突きつけた能義はニコニコと穏やかな笑みを浮かべたまま、その逃げようとしていた五条の腕を拘束する。 「って、おい、天井! つか、なんでこいつが……!」 「まあ話せば長くなるんですが、大方あのバ会長に脅されたかしたんでしょう。ねえ、そうなんでしょう? 五条」 「わ、わかりました、わかりましたから警棒で尾てい骨の位置確認して折ろうとするのやめてくださいって! まじで洒落になりませんから!」 「何を面白いことを、私が一度たりとも貴方に洒落を言ったことが有りましたか」 「ひぇ……ッ!!」  強姦罪に不法侵入、脅迫罪、器物破損にそして武器所持……。  もうなにも言うまい。とにかく、このぶち壊れた天井の破片をどうにかする方が先だ。  天井……どうすんだよ、これ……いくらボロ寮とはいえ……。  途方に暮れながら俺は天井の破片の片付けをすることになる。  朝っぱらから掃除をする羽目になり、その間能義は勝手に岩片の拷問部屋から持ってきた拷問椅子に五条を座らせていた。そして、本題。 「あそこで何をしていたのか簡潔に述べてください。ああ、少しでも誤魔化したり嘘付けば貴方の肋を一本ずつ折っていきますので口には気をつけてくださいね」 「あ、は、はひ……能義様……どうかご慈悲をッ!」 「それは貴方の態度次第ですよ、ねえ、尾張さん」 「……お前はそういう役がよく似合うな」 「お褒めに預かり恐悦至極。貴方のためならば鬼にでも天使にでもなれる私です」  お前が一度たりとも天使だったときがあっただろうか。この男の盲言に異議を唱え出したらきりがない。  それで、と、革ベルトで手足腕腹を固定された五条に視線を向けた能義はゆっくりと目を開く。 「もう一度言いますよ。私は気が長い方ではありません、簡潔に、三行以内に纏めてくださいね」  面白いほど青褪める五条に、関係のない俺まで冷たい汗が流れるのを感じた。 「わ、わかりました、言います、言います!」 「……」 「ええとですね、その、会長に頼まれて……尾張の様子を見ててくれと言われて……」 「それだけですか?」 「は、はひ! ほら、なんなら身体検査してもいいですよ! カメラも盗聴器も全部会長に取り上げられてるんで!」  そうぶるぶると震えながら何度も頷く五条。  その発言に、思考が停止する。早鐘打つ心臓。 「待てよ、それって……いつから……」 「ええと、いつだったかな。確か昨日――」 「……ッ!!」  全身に電流が走ったみたいに、思わず俺は五条の胸倉を掴んでいた。頭に、血が登る。頭だけじゃない、顔から火が出そうなくらい熱くなって、汗が滲んだ。 「っ、まさか、見てたのか……?」  絞り出した声は酷く震えた。「へ?」と目を丸くする五条、レンズ越し、狼狽えるようにこちらを見上げるその目に真正面から見詰められ、呼吸が詰まりそうになった。 「見てたって、なにが……?」 「っ、見て、たんじゃないのか……?」 「いや、えーと、確かに会長には昨夜頼まれてたんだけど俺、寝落ちちゃってさっき起きたばっかなんだよな。……あ、これ会長には秘密にしててくれよな」  なんてすっとぼけたような顔をして笑う五条に、全身から力が抜け落ちそうになる。胸倉を掴んでいた手がずるりと落ちる。  ――何も、見てなかったのか?……本当に?  けど、本当に見ていたとすればこのド変態のことだ、喜んで恰好の餌にするはずだ。そう考えれば、あまりにも五条の反応は『普通』過ぎたのだ。 「……なんだよ、それ」 「どうしたんですか、尾張さん。まるで、何か見られてはまずいことでもあったんですか」 「……っ」  するりと回された手に肩を抱かれそうになり、全身が反応する。咄嗟にその手を振り払えば、能義は「痛いじゃないですか」とやはり笑うのだ。あの腹立つまでに整った笑顔で。 「しかしまあ、会長もどういうつもりなのでしょうね。この男を使ってまで貴方を見張っていたとは」 「……知るかよ、本人に聞けばいいだろ」 「おや、尾張さんどちらへ」 「後はそっちで勝手にしてくれ。……俺は、この天井と扉の鍵をどうにかしてもらう。またでかいネズミに入られたら困るからな」  どうせ盗まれて都合が悪いものなどない。それに、もう能義が鍵を持ってるという時点でセキュリティもクソもない。  部屋を出て、寮の一階の管理人室へと向かう。何かしら職員がいるはずだ。  今はただ、あの空間にいたくなかった。  能義、あの男は恐らく何か知ってるのだろう。それとも勘がいいだけなのか、一緒にいればいるだけ隠したいものまで暴かれそうで怖かった。  ようするに、逃げることを選んだのだ。俺は。  それと目的は他にもあった。  政岡の顔が浮かぶ。……能義にも言ったとおりだ、聞きたいことは本人に問いただせばいい。  見たくねえ顔だが、それが何よりも早いということは俺は知っていた。
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