ep.5 五人目のプレイヤー

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「っぶねぇ……!! か、カイチョー様いきなりそれは……ぐぇっ!!」 「テメェ勝手に俺の名前出したらしいなぁ? テメェのせいでこちらと迷惑被ったんだぞ!!」 「ごごごごめんなさい~~!! 悪気はなかったんです~~!! ほんのちょっと会長様と仲良くなりたかったというか……その、ゴニョゴニョ」  這いずって逃げようとするもののやはり政岡の方が優位のようだ、首根っこを掴み、思いっきり引き上げる政岡に五条は青い顔をしてぷるぷる震えてる。あと口でゴニョゴニョ言うのやめろ。  今にも殴りかかりそうな(というかもうすでに殴りかかってるが)政岡。ただでさえ疲れてるところを隣で乱闘など勘弁してほしい。渋々二人の仲裁に入ることにする。 「政岡、その件のことはもう大丈夫だ、五条から話は聞いた」 「尾張……っ、だけど……」 「別に、お前がムカつくんなら好きにしてもいいけど……俺は戻るからな」  そう、ソファーから立ち上がり、そのまま生徒会室を出ようとすれば「あ、おい!尾張!」と慌てた政岡の声が聞こえてくる。 「待って、好きにってまさかエロ同人みたいな真似するんじゃないですよね?!」 「テメェみてえなやつ相手に誰がするかッ!!!」  ……仲いいのか悪いのか、廊下の外まで聞こえてくる二人の言い争いを背に歩いていると、いきなり背後からドタドタと足音が聞こえてきた。  そして。 「っ、尾張……!」  咄嗟に肩を掴まれ、全身が硬直する。  振り返れば、そこには息を切らした政岡がきた。  そんなに全力疾走しなくてもいい距離なのに、やけに真剣な顔をしてこちらを見るあいつに俺は、咄嗟に言葉が出なかった。  固まる俺に、自分の行動に気づいたらしい。「悪い」とあいつは情けない顔をして俺から手を離す。どうやら、俺が触れられたから驚いたと思われてるらしい。それが癪で、俺は、敢えて何も応えなかった。というよりもだ。 「……おい、五条は……」 「あいつは……結愛と乃愛を呼び戻して見張っとくように言い付けてるから大丈夫だろう」 「大丈夫って……」  だったらなんでついてくるんだ。 「……今から、どこに行くんだ?」 「別に、どこだっていいだろ」 「……尾張」 「いちいち付き纏われなくても、お前との約束は守るよ。……どうやったってアンタには力で勝てそうにないしな、また同じようなことされちゃ堪ったもんじゃねえ」  口にして余計なこと言ってしまったなと思った。  忘れたいのに自分からほじくり返してはコイツが罪悪感のつもりなのか渋い顔をするのを見て余計不快になって、不毛だと思ってても皮肉や嫌味の一つくらい言ってやらなきゃ気が済まなくて。  政岡は、やっぱり怒らなかった。ただ、俺に視線を向けるのだ。まだ日の明るい時間帯、正面に立つやつを観るとどうしても不整脈が起きるらしい。 「……お前の身になにかあったら困るんだよ。だから、嫌だろうが付き合わせてくれ」 「なるべく視界に入らないようにするから」なんて、申し訳なさそうにこの男はぬけぬけとそんなことを言ってみせるのだ。正直、頭にきた。当たり前だ。俺からしてみればお前といる方が危険だ。言ってやりたかったが、あまりにも馬鹿真面目な顔をして言われたらなんだかもう言い返す気にもなれなかった。 「……勝手にしろ」  どうせ、俺が嫌だと言ってもついてくるつもりのくせに。  政岡は一瞬驚いたような顔をして、「ああ」と返事した。俺は、そのときにはもうやつの顔を見る気にもなれず歩き出していたのでどんな顔をしてたのかなんて知らないが、その声からして嬉しそうなやつの顔が浮かんだ。  一度部屋に戻るつもりだった。  けれど、政岡が着いてくるとなると少し気が進まない。  どうしても、嫌でも昨夜のことを意識せずにはいられなかったから余計。  けれど、部屋の引っ越しの件もある。こいつには部屋の外で待っててもらおう。それなら……まだましか。それに、少なくとも今やつに俺をどうこうする気はないように見えたのも事実だ。いつも通り……いや、昨夜の政岡が異常だったのか。 「おお、いたいた尾張」  学生寮、自室前通路。  考え事していると、不意に前方から見覚えのあるスーツのホスト……もとい宮藤がこちらへ向かって歩いてくる。 「……と、政岡も一緒か。珍しい組み合わせだな」  なんて、笑う宮藤だがなんとなく政岡を見るその表情は硬い。問題児代表みたいなやつだから教師側からしてみればなるべく避けたい相手なのかもしれない。というか、珍しいのか、宮藤からしてみたら。 「マサミちゃん……どうした?」 「ああ……部屋の件だが、丁度空いてた部屋があったからそっちに手配してるぞっていうのを伝えにきた。けど、空いてる部屋が丁度一人部屋しかなくてな……」 「一人部屋、って」 「ああ、そうだな。基本役職持ち専用の階になるんだが……」 「…………」  ちらりと政岡の方を見れば、やつは険しい顔をして宮藤の話を聞いていた。……神楽の部屋には一度行ったことあるが、あのフロアになるってことだよな。  そうなると、こいつとも同じ階になるのか。そう考えると、冷たい汗が背筋に流れる。 「大丈夫そうか?」 「俺は別に寝れればどこでもいいよ」 「そうか?なら良かった、あくまで天井の修理終わるまでの予定だが……元々うちの寮ボロだからな。補強やらなんやらも考えたら多分結構かかるかもしれねえから覚悟しろよ」 「りょーかい」  全然良くないが、今の岩片と同じ部屋のままでいるよりかは一人部屋の方が遥かにましだ。  問題点がないとなれば嘘になるが、それしかないのなら仕方ない。  俺の返事に宮藤はほっとしたような様子だった。 「ああ……それと、お前が移る予定の部屋、一応清掃してもらったんだが結構荒れててな。……まあ言うより見た方が早いな」  案内しよう、と宮藤は歩き出した。  分かってはいたが、どうやら政岡も着いてくるつもりのようだ。黙って俺の後ろから着いてくる政岡が気になって仕方ないが、宮藤もいるだけましだ。  学生寮上層階。 「ここだ」  そうとある部屋の扉の前に立ち止まった宮藤は持っていた鍵で扉を開いた。そのまま中を覗いた俺は、まず鼻を覆った。前の部屋では白かった天井がヤニで焼けて黄ばんでいる。つか、タバコ臭え。 「……うっわ……」 「ここが尾張の部屋になる。……匂いに関しては、まあ、俺もずっと消臭剤と換気繰り返してなんとかマシになった方だ。ほら、お前にもやっとくなこれ」  そう、消臭スプレーの入った袋を渡してくる宮藤。 「どうも」と中を覗けば新品含めて結構あるなこれ……。  確かにタバコ臭さは気になったが死ぬほど苦手というわけではない、というかそれ以前にここは確か学生寮のはずなんだけどな。宮藤のためにも二十歳以上の留年したセンパイが使ってた部屋と脳内補完しておくか。 「もう今日からここ使っていいから。ほら、これはこの部屋の鍵な」 「どうも」  先程宮藤が使っていた鍵を受け取る。  それを落とさないように俺はすぐにポケットに突っ込んだ。 「荷物は……まあ、政岡がいるんなら手伝ってもらえよ」 「別にそんなこと……」 「アンタに言われなくてもそのつもりだ」  ようやく口を挟んできたと思ったらこれだ。  何故だか不機嫌になってる政岡にぎょっとしたが、宮藤は「それなら良かったな」とへらりと笑った。 「こいつ結構苦労性みたいだからな、政岡も先輩として色々面倒見てやれよ」 「おい、マサミちゃん余計なこと言うなって」 「けど、そうだろ。岩片いなくなったらお前寂しくなるだろうしな」 「んなわけ……寧ろゆっくりできる時間増えて清々するよ」 「まあお前はそういうか」  なんだよ、と睨めばマサミちゃんは「冗談だろ」と肩を竦めて笑い、そして俺に向き直る。 「それじゃ、俺は次の授業の準備あるから。またなにかあれば言えよ?」 「ん……ああ、ありがとな」 「いいよ、一応元の部屋は明日の午前から工事入ることになってるからそれまでに荷物移しとけよ」  りょーかい、とだけ答える。  宮藤はそのまま部屋の前から立ち去った。  最後まで政岡は宮藤に対してムスッとしていたが、岩片の名前が出てからというものの黙ってるのが余計君悪かった。 「マサミちゃんはああ言ってたけど、本当、別に手伝わなくていいからな」 「ベッドとかどうすんだよ、一人じゃ無理だろ」 「別に解体して運ぶって手もあるし……」 「荷物全部解体するつもりかよ。そんなんじゃ日が暮れるぞ。それに……」  と、政岡に腰を掴まれそうになり、咄嗟に手を振り払った。身構え、やつを振り返れば、政岡は何を考えてるのかわかんねー顔で「そんな体じゃ辛いだろ」と言い出すのだ。憐憫の色を滲ませ。 「誰の……ッ」  誰のせいで、と言いかけたが、この男は分かってて、理解しててこんな顔をするのだ。そう思うと余計遣る瀬無くて、俺は言葉を飲んだ。真正面からこの男を相手していたらこっちの精神が持たない。そう思ったから、勝手にしろ、とだけ言って自室へと戻る。  政岡が何をしたいのか、何を考えてるのかまるでわからなかった。償いのつもりか、こいつにはもう俺に目を掛ける必要などないというのに。こんなことしなくてもお前に協力するって言ったのに、理解できない。なぜこうまでして俺に付き纏うのか。意趣返しのつもりなのか。  ……だとしたら、効果覿面だ。  結局、部屋まで戻ってきてしまった。  政岡と密室に二人きりになるのは耐えられなくて、扉は開いたまま閉じないようにすれば政岡も察したのだろう。特に何も言わなかった。  新しい部屋にはクローゼットはあったが、肝心のベッドやテーブル、椅子などが欠けていた。  クローゼットの中に詰めてた自分の衣類だけを転校時に一緒に持ってきていたキャリーバッグに詰め込む。  纏めてみれば案外荷物は少ない。 「尾張、尾張の荷物って……」 「そこに置いてある分だけだ。……あとは向こうの部屋にない……ベッドくらいかな。クローゼットはついてるみたいだし」 「お前のベッドってこれか?」 「違う、そっちは岩片の……」  と、言い掛けて、昨夜の記憶が蘇る。岩片のベッドで、この男に犯されたことまで思い出してしまい、熱が、ぶり返すようだった。  言葉に詰まる俺に、政岡も気付いたらしい。  ああ、最悪だ。なんで俺は口籠った。これくらいのことで、こんなんじゃ、まるで意識してると思われるじゃないか。 「……俺のじゃねえよ」 「そ、うなのか」 「…………」  ……だから嫌だった。この男とこの部屋で二人きりになるなんて。どうやっても蘇る性行為の匂いに、感覚に、平常心であろうとすればするほど自分の首を締めるように苦しくなる。それでも、俺は全身に絡み付いてくるそれを無理矢理振り払いなんでもないように振る舞うことに徹した。 「そこにあるのも、触るなよ。あいつの私物だから」 「あ、ああ……って、このベッド折り畳めるのか。なら大丈夫そうだな」 「…………」  ぎこちなく笑う政岡の耳が赤くなっている。ああ、クソ、何してるんだ俺。この空気に耐えられず、俺は窓を開けた。ひらめくカーテンに、初夏特有の湿った風が流れ込んでくる。  余計蒸し暑いが、この空気を今すぐに換気したかった。  俺は窓から離れ、さっさと終わらせようと服を詰め込んだキャリーバッグを起こそうと腰を曲げ、そして、ずきりと痛む下腹部に堪らず舌打ちをした。 「……ッ、つ」 「大丈夫かっ?!」 「声、でけーよ。……これくらい、別に……」  つか、見てたのか。ハラハラとしながら駆け寄ってくる政岡を無視してそう再び抱え起こそうとしたとき、伸ばしかけた手をやつに握られ、ぎょっとした。 「……重そうなもんは俺が持つ。だから、お前は纏めるだけ纏めてくれ」 「別に、誰もそんなこと頼んで……」 「いいから、俺の言うこと聞け」  図らずしも背後から抱き締められるような体勢に、自然とやつの声も近くなる。宥めるような声とは裏腹に有無を言わせない圧があった。手を握り締める手に、肩を掴む手に、耳元に息が吹き掛かりそうなほどの近距離で囁かれ、全身がぞわりと震えた。冷たい汗が流れる。 「……ッ、いい加減、手、離せよ」 「っ、わ、悪い……!」 「…………」  慌てて政岡は離れてくれたが、それでも、手を握り締めていた感触も肩に触れる感触もこびりついたままだった。  キャリーバッグから離れ、俺は、政岡から逃げるように脱衣所に逃げ込んだ。ドッドッと大きく脈打つ心臓の音が、耳にまで聞こえてしまうようで。  ……なんだよあいつ。わざとか。嫌がらせか。  そうでなければ、ふざけてる。俺をからかって遊んでるのか。……最悪だ。  顔の熱は一向に引かない。いつまでもあいつから逃げてるわけにもいかない。俺は一旦熱を冷ますために冷水で顔を洗った。  ついでに脱衣所の俺の歯磨き粉だったり歯ブラシだったりを全部片付ける。そして、政岡に言われたとおり一旦荷物を分かるように纏めて置いていた。  案の定というか元々わかっていたが、部屋の私物大体余計なもの持ってきてるのは岩片だ。本当に最初から俺なんていなかったみたいに何も変わらない部屋を見ると、変な感じだった。  そしてようやく、全ての俺の荷物を纏め終わったとき。 「尾張、これで最後……」  だよな、と政岡が荷物を抱えようとしたときだった。  その背後、開きっぱなしの扉の向こうに人影を見た。  明るい茶髪の地味顔と、もう一つは、一度見たら忘れられないようなもさもさ頭のシルエットに分厚い瓶底眼鏡。 「あ、尾張君……っと、か、会長……?!」  岡部と、岩片がそこにいた。  今まさに荷物を出そうとしていたときだった。  最悪だ。口の中で思わず吐き捨てずにはいられなかった。  ……本当に、最悪だ。  ずっと部屋に戻ってこなかったくせに、なんでこんなタイミングで戻ってくるんだよ。 「なんだ、わざわざ雑用雇ったのかお前。流石、オヒメサマだな」  岩片の声を久し振りに聞いたような気がする。  いつもと変わらない偉そうな態度、口調なのに、その言葉の端々から感じるその棘に気づかない程俺も愚かではない。  岩片が怒ってるのがわかった。俺に対して、なのだろう。あんな別れ方をしたあとだ、岩片からしてみればあんなこと言っておいて他の野郎を部屋に連れ込んでるように映ってるのかもしれない。そう思うと屈辱で、咄嗟に言い返そうとしたとき。俺と岩片の間、そこに、政岡が割って入る。 「……俺が手伝うって言ったんだよ、テメェには関係ねえだろクソモジャ」  庇ってほしいなんて一言も言っていないのに、岩片に突っ掛かる政岡に頭が痛くなる。火に油を注ぐとはまさにこのことだろう。  部外者の存在に目を向けた岩片は、その唇に嫌な笑みを浮かべる。そして、 「……俺はお前に話しかけてねえんだわ。……ハジメ、お前自分で答えることもできないほど甘やかされてんのか?」  やつから外れた視線はすっと俺を捉えた。レンズ越し、細められた冷たいその目に見据えられ、息が詰まりそうになる。それを誤魔化すように、咄嗟に笑った。きっと、引きつった笑顔になっただろう。それでも、狼狽えてると思われることが何よりも嫌だった。 「……なんだ。お前、俺に答えてほしかったのかよ」 「い、岩片君っ、尾張君も……落ち着いて……!」 「安心しろ、岡部。俺らの用事はもう終わったから……あとはゆっくりしてけよ」 「行こうぜ」と、咄嗟に政岡の肩を叩く。  相手にするだけこの男は厄介だ。それをずっと近い位置から見てた俺は知ってる。だからか、納得いかなそうな政岡だったが渋々俺に従ってくれた。  荷物を抱える政岡、その後を追い掛けようと、扉を通り抜けて岩片たちの前を通り過ぎようとしたときだった。  擦れ違いざま、腕を掴まれる。 「っ、な」  何事かと思い、顔をあげれば鼻先がぶつかるほどの至近距離。首筋に近付いたやつの鼻がすん、と鳴った。そして、 「臭えな」 「安っぽい香水の匂いがする。……お前、そいつと寝たのか」全身から血の気が引いた。  笑みの消えたやつの口から出たその言葉は、俺にしか聞こえない声量だった。 「……ッ離せ!」  近くにいた岡部には聞こえなかったのが幸いだ。その手を振り払おうとすれば、青褪めた岡部が「あわ、あわわ」と右往左往してるのが見えた。それでも、腕を掴むやつの手は離れない。それどころか、ぐっと引き寄せられそうになり、既のところで堪えた。軋む関節、クソほど痛いが、それでも意地でもされるがままにはなりたくなかった。 「だったら、なんだよ。……お前には関係ないだろ」 「ある」 「ねえよ……っ」 「あるだろ。だって、お前は俺の――……」  岩片が何かを言い掛けたときだった。 「……っ、いい加減にしろ、コイツに絡んでんじゃねえぞ!」  政岡が、岩片の胸倉を掴む。拍子に岩片の手は俺から離れ、俺を向いていた目は目の前の政岡に向けられる。そして、やつの唇が冷たく歪む。見覚えのある、嫌な笑みだ。ろくなことを考えていないときの、笑み。 「一回寝たくらいで彼氏面かよ、相変わらずおめでたいやつだな。言っとくけどそいつ、俺が言えば誰とでも寝るぞ」 「……テメェ……ッ!」  俺が反応するよりも先に、政岡が動いた。  政岡が、握り締めたその硬い拳を岩片の顔面に向かって叩き込もうとした瞬間、気が付けば体が勝手に動いていた。  無意識だった。  肉が潰れ、骨と骨がぶつかるような音ともに脳味噌が、視界が、大きく揺れた。それから左耳から音が聞こえなくなる。  白ばむ視界の中、青褪めた政岡の顔が映っていた。 「尾張君ッ!!」  右耳から聞こえてくる、岡部の悲鳴にも似た声が頭に響いた。やべえ、今のは、久しぶりに来たわ。膝が震え、それでもあの馬鹿みてーなクソ重いパンチで踏み止まった自分を褒めたいくらいだ。  つか、なんで、俺殴られてんだ。 「……っ、おわり」  癖というのは恐ろしいものだ。色を失ったような政岡に、俺自身も狼狽えていた。どろりと鼻から溢れる血に、口の中に広がる鉄の味。 「お、尾張君!! ……血が……!!」 「悪い、尾張、俺……っ!」  駆け寄る岡部と政岡。そして、政岡が俺の頬に触れようとしたときだった。 「コイツに触るな」  聞いたことのないような、ゾッとするほど冷たい声だった。政岡の手を振り払った岩片に、何を考えてるのかと振り返ろうとした矢先。足が地から離れた。正確には、岩片に抱き抱えられたのだと気付くのにそう、時間は要いなかった。 「っ、おい……岩片……ッ!」  顔をあげればすぐそこには瓶底眼鏡、薄っすらと透けたやつの目と視線がぶつかる。つか、細っこい体でやすやすと人を抱き上げるこいつにも驚いたし、なによりも、何を考えてるのか全く読めない。降ろせ、とバタつくが、腰と膝の裏に回された腕はがっしりと俺を抱き抱えて離れない。 「悪いな岡部、お前は部屋に戻っていいから」 「おい、待て! そいつをどこへ連れて行くつもりだ……っ!」  突然のことに政岡も動揺してるらしい、咄嗟に人を抱き抱えたまま部屋を出ようとする岩片を呼び止める政岡に、視線だけを向けた岩片は冷たく言い放った。 「お前がいないところ」
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