ep.5 五人目のプレイヤー

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 部屋の片付けを終わらせ、ベッドに飛び込む。  今日ほど一人部屋になってよかったと思う日があっただろうか。いつあいつが帰ってくるかも気にしなくてもいいし、好き勝手できる。けど、あいつはどうだろうか。  俺がいなくなったらきっとすぐに散らかるだろう。そもそも、あのごちゃごちゃしたきたねー部屋から私物を持ち出すのだけでも時間がかかるはずだ。  前回俺が運び込むのに頑張ったんだからな、少しは俺のありがたみってものを感じればいい。  そんなことを思いながら天井をぼけっと見上げていると、不意に腹が鳴る。  ……ああ、そういや昼飯、食ってなかったんだっけ。  バタバタしてて忘れていた。時計を夜飯にはまだ少し早い時間だが……まあいいや、少し、飯食いに行くか。  気怠い体を起こし、軽く伸びをする。  食堂で食う気分じゃないから、売店で適当な飯買って帰るか。なんて考えながら鍵を手にして部屋を出た。  そしてそのまま扉の施錠をしようとしたとき、丁度隣の部屋の扉が開いた。  何気なく目を向けた俺は、そのまま固まる。 「えっ、あれれえ? ……元君? どーしてここにいるのぉ?」  それは、向こうも同じだった。  どうやら丁度今部屋に戻ってきたらしい神楽は、俺の顔を見るなり驚いたように目を丸くする。  それは、こちらのセリフだ……と思ったが、普通に考えて神楽がいるのは当たり前だ。というか隣だったのか。  ……つくづくツイていない。 「ガタガタうるせーって思ったら……待って待って、何してんの? 引っ越し? お隣さんなの? っていうかその怪我どうしたの?!」  目をキラキラさせ食いついてくる神楽に、俺は正直対応を決め兼ねていた。  あんな、喧嘩別れというか面倒な別れ方をしたにも関わらず以前と変わらなぬ調子の神楽に、俺は渋々「まあ、色々あって」と答えることにした。 「……前の部屋の天井が壊れたから、修理するまでの間ここで過ごすようにってさ」 「でもでも、それじゃあもじゃも……?」  もじゃもじゃ……岩片のことか。  このフロアに引っ越しという点となるとそういうことになる。頷き返せば、神楽は露骨に嫌そうな顔をした。 「ええ~~ッ!! 最悪なんですけどぉー。けどけどっ、元君がいるのは嬉しいなぁー」 「てか、荷物運ぶの面倒でしょ~? そんなら俺の部屋に来てくれたって全然よかったのにねえ」ねーっと同意を求めてくる神楽はあまりにも自然な動作で距離を詰めてくる。なんとなく、やばい、と思い後退れば伸びてきた手は俺の手を取るのだ。  「っ、おい、神楽……っ」 「謙遜してるー? それとも、照れてるの? でも、非処女なんだからもう気にすることないでしょ~?」  するりと絡められる指先は指の谷の間を撫でるのだ。  寒気が走り、咄嗟に手を振り払おうと腕に力を入れるが、それよりも早く神楽に手を握り締められた。恋人つなぎ。  挙げ句の果て。 「……二本も咥え込んだクソビッチちゃんのくせに」  底冷えするような、聞いたことのないその冷たい声。鼓膜に直接囁きかけられ全身が凍り付く。咄嗟に身じろぐが、それよりも早く腰を抱かれ、鈍い痛みに堪らず顔が歪む。 「っ、やめろ」 「やだなぁ~、本気で嫌がってるじゃん? ……傷つくなぁ。副かいちょーと書記はいいのに?」 「良くねえよ、お前も、あいつらも……ッ!」 「本当に?」  股の間に差し込まれる膝小僧。下腹部を柔らかく押し潰され、冷たい汗が流れる。やめろ、と神楽の薄い胸板を押し返そうとするのに、俺が力が入っていないのか、それともこいつが馬鹿力なのか、びくともしない。 「っ、ふざ、けるな……いい加減にしろ……っ!」 「岩片凪沙とかいちょーは知ってるの?」 「……は?」 「だからぁ、生徒会室で3Pしてましたって」  神楽の言葉に、思考が停止する。この男が何を言ってるのか微塵も理解できなかった、理解したくなかった。思考拒否。そんなもの、言うわけないし知られるわけがない。……あの二人が黙ってたらの話だが。 「あ、言ってないんだ」  にやりと笑う神楽の笑顔に背筋が凍る。違う、と喉先まででかかって、唇をふに、と指先で抑えられた。息を呑む。 「ハジメ君は口よりも目のが正直者だよねえ、言わないでくれって目、してるよぉ」 「……神楽……っ」 「大丈夫大丈夫、言わないよぉ。だって俺、元君のこと好きだもん。優しくてかっこよくて」 「……何が言いたいんだよ」 「嘘、わかってるくせに」  は、と聞き返すよりも先に、ネクタイを思いっきり引っ張られ、ぎょっとする。やつの腹立つニヤケ面が近付き、唇が触れそうになる寸前、咄嗟にやつの口元を手のひらで覆えば、神楽はにっと笑う。 「あ、キスはダメなんだ?」 「良いわけねえだろ……っ」 「じゃあエッチは?」  まるで何でもないことのように口にする神楽に一瞬、反応が遅れた。不快値というのが可視化されるようになっていたのなら俺の不快値は限界突破してるに違いないだろう。  会話するのもバカバカしくなって、俺は振り払うように神楽を押し退ける。 「人を馬鹿にするのも大概にしろ」 「馬鹿にしてないよ~? けど、一番最初に元君に目ぇ付けたの俺なのにねえ、こんなのおかしくない?」 「おかしいのはお前の頭だろ」 「うえーん、ショックだなぁ。元君俺に冷たいよねえ? 冷たくない? 傷ついちゃうな~俺」 「……悪いけど、そういうことなら他のやつらに付き合ってもらったらどうだ?」  真に受けるのもバカバカしい。ここの奴らはそればっかりだ、他に考えることとかないのか。  付き合ってられるか、と「じゃあな」とその場を後にしようとしたときだった。  踵を返したその先でなにかにぶつかった。壁かと思ったが、違う。 「……おい、人の部屋の前で騒いでんじゃねえよ」  内臓の裏側を擽るような低い声。俺はつい最近もこの声を至近距離で聞いていた。  顔を上げれば、そこには五十嵐がいた。その細められた目は俺ではなく、俺の背後にいた神楽に向けられていて、背後からは「げっ」と神楽の心底嫌そうな鳴き声が聞こえてくる。  救世主、なのか。なんだか余計ややこしくなりそうな気もしないでもないが……一まずは助かった。  と、思いたいが前回が前回だ。俺は慌てて五十嵐から離れようとしたが、腕を掴まれてしまう。 「な……」 「……おい、コイツになんか用か?」 「なに? セックスしただけでも~彼氏面してんの? さっすが書記、キモーイ」 「してねえよ、目腐ってんのか」 「じゃあ元君返してよ。俺、今元君を口説いてる途中なんだからお前いると邪魔なんだよね~!」 「…………」  ちらりと五十嵐の目がこちらを見る。行くか?とでも言うかのような目だ、行くわけねえだろと全力で首を横に振り×のジェスチャーをすれば、五十嵐は面倒臭そうに溜息を吐いた。 「コイツのことならもう諦めろ」 「何ソレ、どーゆーこと?」 「コイツはもうお手付きだ」 「それって……」 「直接政岡たちに聞けばいい」  それだけを言うなり、五十嵐は俺の肩を掴んで歩き出す。待て、なんで俺までと思ったが、もしかして神楽が付き纏ってくることを心配してついてきてくれるのか。なんて、最早希望でしかない思考が過った。  ……ここは五十嵐に合わせておくか。  五十嵐のことを苦手らしい神楽から逃げるにはもってこいだ。……というわけで、五十嵐が行く先へとのこのこついていった俺だったが、背後、神楽が追いかけてきてないことに気付き、咄嗟に足を止めた。 「い、五十嵐……」 「なんだ」 「もう、ここまでで大丈夫だ……神楽、来てねえし」 「……」  ありがとな、なんて言おうとしたが、それでも尚立ち止まろうとしない五十嵐にぎょっとする。 「お、おい……?!」 「アイツのことだ、隠れてお前が一人になった隙狙ってくるぞ」 「え……」  五十嵐がくいっと顎で示す方を向ければ、確かによく見ると靴先がはみ出ている。隠れてる気あるのかあいつは。 「……いいから、着いてこい」  そう、とある部屋の前で立ち止まった五十嵐は鍵を開けた。そして、入れよ、と目で促され、俺は一瞬立ち止まる。  いいのか、こいつのことを信じても。つか、この前こいつは能義と一緒に俺にあんなことしたやつなんだぞ、いいのか。今更になってなんか自分が選択肢を間違ったような気がしてならないが、ここで気付いたところで遅かった。  腕を掴む手のひらは、俺の意志なんか関係なく「早く入れ」と部屋の中へと引き摺り込むのだ。  罪悪、逃げればいい。それに、神楽を撒くためだ。俺はこいつを許したわけではない。頭の中で色々言い訳を並べながら、俺は誰に向かって言い訳しているのだろうかとアホくさくなった。  背後、扉が閉まる音を聞きながら、俺は五十嵐の部屋に踏み入れた。  五十嵐の部屋に入る。  神楽は間違いなく誤解するだろうし、俺が神楽の立場でも疑わしく思うだろう。それに相手は五十嵐だ、何考えてるのかよくわかんねー自己中野郎。  だから、いつでも逃げるつもりでいたのに……やつの部屋に入った俺はそんな思考が全部吹き飛んだ。 「お……お前、ここで寝てるのか?」 「……それがなんだ?」 「どこで寝るんだよ……ってか、ベッドの上にモノを置くなよ……!」 「丁度いいだろ。……寝るのはあっち」 「そ、ソファー……」  ゴミ屋敷とまではいかないが、ごちゃごちゃしてる。岩片も大概だが、五十嵐も五十嵐だ。バイクの雑誌やら漫画が乱雑に積まれたベッドの上、その代わりに寝床となってるというベッドにも上着がかかったままだし。  あー勿体ねえシワになるだろこれ、と呆れながら何故か床に落ちてるハンガーにかけてやれば「おい」と五十嵐が面倒臭そうな顔をした。 「人の部屋のもん勝手に触んな」 「これいいコートだろ、勿体ねえ、もっと大切にしろよ」 「……はあ」  溜息かよ、こいつ。 「お前、じっとできねえのか。ちょこまかしやがって」 「じっとって……この部屋のどこで寛げって言うんだよ」 「……床?」  お前も疑問系じゃねえか。  言いながら、五十嵐は無視してソファーに座り出す。おい、ブレザー尻に敷いてんぞ!おい! 「……信じらんねえ」 「助けてもらったやつに言うことか、それ」 「……う、それは……ありがとう。助かった……」 「あんな野郎くらいさっさと殴って逃げればいいだろ」 「……う」 「……その顔の怪我もアイツの仕業か?」 「これは、違う。別件だ」  仮にも自分の仲間に対しての言い草ではないが、そうか、五十嵐は別に仲間だと思ってるつもりはないのか……?神楽も五十嵐のこと嫌ってるようだし……。 「神楽が……」 「あ?」 「あいつが、その……この前のことを、岩片とか、政岡に言うぞって……」 「言わせりゃいいじゃねえか」  即答だった。  どれのことを指してるのかこいつもわかってるはずだ、一緒にいたのに、それでも尚平然とした顔でそんなことを言うのだ。 「言わせるって……」 「周りからどうせヤリまくってるって思われてんだろ、お前」 「……っな、そんなこと……」 「お前本人がいくら騒いでも無駄だってことだ。……神楽だって、今ここで俺とお前がヤッてんだろって思ってるだろうしな」  諦めたような、投げやりな言葉だった。それでも興味なさそうに続ける五十嵐に俺は言葉に詰まる。  同時に、まさに自分の思考を読まれたようで顔が焼けるように熱くなった。 「一々気にしてんじゃねえよ。俺が言いてえのは、無駄なこと考えんなってことだ」 「……五十嵐」 「投降するなよ」  真っ直ぐにこちらを見据えるその目に、背筋がびりっと痺れるような感覚を覚えた。鋭い目が、俺を捉えて離さない。  そして、俺は先程神楽に対して言ったお手付きという言葉を思い出す。 「五十嵐……お前、聞いたのか」 「……まさか本気で政岡を勝たせるつもりじゃないだろうな」  違う、と言うべきなのか。一瞬言葉が詰まる。  その反応に、五十嵐も勘付いたらしい。 「本気で言ってんのか」と、鋭くなるその目に俺は何も言い返せなかった。ソファーから立ち上がったやつが、俺の目の前までやってくる。咄嗟に後退ろうとして、なにかにぶつかった。テーブルだ。 「……っ、なんだよ、退けよ」 「アイツに情でも移ったのか」 「それは……違う」 「理由を言え」  理由、と言われて思い出したくねーもんまで思い出してしまう。察しろよ、と思うのに、バカ見てーに真っ直ぐにこちらを見るこの男は俺の口から聞くまで離さないらしい。  そんなに、俺がゲームに屈するのが気に入らないのか。 「……もう、どうでも良くなったから」  それは、嘘ではなかった。  岩片に棄てられて、自由だと放られた俺にとってやりたいことなどない。寧ろ、平穏に過ごしたいがそれはターゲットである身からしてみればゲームが続いてる限り終わらないわけで。  ならば、俺がやることは一つ、さっさとこのくだらねえゲームを終わらせることだ。そのためなら別に誰でも良かった。たまたま、政岡が近かっただけであって、それ以上でもそれ以下の理由でもない。 「……なんだよ、怒ってんのか?」 「俺は、岩片凪沙と仲直りをしろと言ったがアイツを勝たせろとは言ったつもりはない」 「……そーだな」 「そうやっていつまで拗ねてるつもりだ」 「拗ねてなんかねえよ、子供か」 「拗ねてるだろ。お前、岩片凪沙のことが好きなんだろ。だから、いつまでも捨てられただとかでヤケになってんじゃねえか」  一瞬、頭が真っ白になった。目の前の五十嵐を睨めば、あいつはいつもと変わらないキツイ目で俺を見てきて。 「違う」と言いたいのに、唇が震える。恥ずかしい、のか、わからない。けれど、五十嵐にそんなことを指摘され、怒りとかなんやらで頭がこんがらがって……何も言葉が出なかった。  好きか嫌いかと言われれば――わからない。  けど間違いなく普通に生きてたら関わりたくない人種だし、それは今でも思うが、けれどあいつの好き勝手して楽しそうに笑う姿は見ててスカッとしたし、そんなあいつに必要とされることは……悪い気はしなかった。  けれど、それが好きかと言われれば違う気がする。  それを、この男に決め付けられてみろ。五十嵐が俺に対してどんな目で見てたのか突き付けられたようで、恥ずかしくなった。  こいつは、俺が岩片に対して邪な考えを持ってると思っていたのか、ずっと。 「っ、違う……」 「違わねえだろ。だから、アイツに抱かれて舞い上がってテンパったんだ」 「……ッ俺のこと、何も知らねえくせに……」 「知らなくても見りゃ分かる。お前、好きな野郎にレイプされたやつと同じ凹み方してんだよ」 「いい加減割り切れよ」と、五十嵐はトドメを刺してくる。こいつ、やっぱり嫌いだ。大嫌いだ。  わかっていたはずだ、こういうやつだと。少しでもいいやつと思った俺が馬鹿だったのだ。  痛いところに塩を塗り込まれて、涙すら出てこねえ。頭の片隅では理解していた、こいつの言葉がこんなにも頭にくるのは的確なところ突かれたからだって。 「っ、割り……切ってる……」 「嘘吐け」 「お前がわからず屋なだけだろ……っ! こんな風に煽られたら誰だってムカつくに決まってんだろ……!」  多分、これは嘘だ。以前の俺なら一々こんな挑発気にも留めなかった。  それなのにこんなに動揺させられてることが問題だとこの男は言ってるのだろう。  そして、俺の反論に五十嵐は顔をしかめ、俺のネクタイを掴む。 「……なら、証明しろよ」  ぐ、と引っ張られたと思った次の瞬間、唇に柔らかいものが触れた。  この野郎。  咄嗟にその唇に思いっきり歯を立てれば、口の中に血の味が広がる。僅かに五十嵐の顔がしかめられるが、ネクタイを掴むその手は離れるどころか胸倉ごと掴んできやがった。 「っ、ん、う゛……ッ」  話も通じねえし馬鹿力だし、そんな相手にキスされてる状況がただ不快なはずなのにそれよりも力負けしてしまう自分が嫌だった。指先に思いっクソ力入れて引っかくが、びくともしねえ。それどころか、口の中を乱暴に荒らされればされるほど思考がぶれる。  口の奥で窄まっていた舌の先っぽを粘膜でこすられ、堪らず指先にぎゅっと力が入ったとき、ずぽ、と音を立てて舌を引き抜かれた。  口を閉じることを忘れ、暫く放心していた俺の耳たぶを摘み、唇を寄せる。 「……割り切ってるんだろ?」  鼓膜に囁きかけられるような低音に背筋が震える。  そして、すぐに理解した。この男は人を引っ掻き回して、弄んで、試しているのだと。  そう思えば沸々と腹の底から怒りが込み上げてきて、動揺も全部一周回って冷静になる頭の中。  俺は引き攣る顔面の筋肉を無理矢理動かして笑ってみせた。 「ああ、そうだな、全然大したことねえ」 「声が震えてるぞ」 「そりゃ気のせいだ。それか、テメェの願望だろ」  動揺を悟られたら負けだ。それだけは我慢ならなかった。とにかく言われたい放題は耐えられなかった。言い返せば、やつは「へえ」と、その鋭い目をすっと細めるのだ。  そしてごく自然な動作で再度、人の唇を塞ぐのだ。 「……っ」  唇を舐められ、意識とは関係なく体が跳ねる。それを悟られるのが嫌だった。  試されているのだと、弄ばれているのだと、そう思うと無性に腹が立った。  どいつもこいつも、人の気なんて知らねえで。 「っ、ふ……っ」  五十嵐の胸倉を思いっきり掴み、そのまま自分へと引き寄せる。やつのボタンが外れようがどうでもいい、強引に引き寄せ、唇に這わされる舌に俺は自分の舌を絡ませた。 「っ、は……ん……ッ」  クソみたいに熱い。濡れた粘膜同士がぬるりと触れ合う感触が不愉快だったが、その感覚を殺し、更に俺はやつの胸倉を掴み、深く唇を重ねる。そして、俺は五十嵐から唇を離した。 「これで……満足したかよ」  吐き気がするほどの血の味の中、ほんの一瞬、呆気に取られる五十嵐の顔が見れただけでもスカッとした。 「おい」と何か言いたそうな五十嵐だったが、これ以上付き合ってられない。 「……神楽から助けてくれた礼は言う。……ありがとな」  五十嵐が何かを言う前に、俺は部屋から出ていくことにした。これ以上ここにいると今度は何されるかわかったものではない。今すぐにでも唇を拭ってやりたかったが、我慢した。  やつに強がりだと思われたくなかったから。それだけだ。  扉を閉める、やつが追いかけて来るよりも先にその場からさっさと立ち去りたかった。  ……つくづく、面倒な場所に引っ越してしまった感は拭いきれない。  幸い神楽は待ち伏せしている様子はなかったが、そのフロアを離れるまで俺はなんだか落ち着かない気持ちだった。  ……飯を食いに行くだけでなんでこんな無駄な緊張感を味わわなければならないのか。解せない。
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