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場所は代わってラウンジ。
ベンチに座って売店で買ったジュースとパンを食って一息ついているときだった。
後方から足音が複数。ちらりと目を向ければ、柄の悪いやつ男たちが複数。中には鉄バット持ってるやつもいる。
「お前、尾張元だな?」
「違いますけど」
「嘘吐くなコラァ!!! 舐めてんのか!! こちらと調査済みなんだよ!!」
ならなんで確認したんだよ。クソ、面倒臭いのに捕まった。丁度食い終わった空き袋をゴミ箱に投げ入れ、立ち上がれば連中は身構える。
「それで? なんの用っすか」
「……岩片凪沙はどこだ」
「…………なんで俺に?」
「しらばっくれんなよ、お前のことは調べたっつってんだろ! ……お前、あのムカつく野郎の恋人なんだってなぁ?」
「………………………………は?」
「あの野郎がお前に熱烈な公開告白したのは知ってんだ! 赤の他人なんてわけじゃねえんだろ?!」
そーだそーだ!と野次。熱烈な告白、恐らくそれは俺はいないときに岩片がやりやがった政岡への宣戦布告のことだろう。何を言ったんだ、本当にあいつは。
頭が痛む、そして、この目の前の奴らをどう対処するかにもだ。
「…………あー……あの、なんつーか……勘違いしてると思うんすけどそれ、あいつが勝手に言ってることなんで。それと、俺まじであいつどこいるかとか知らねえし」
「ふざけてんのか? 部屋は急に空き部屋になってるしよぉ、お前もルームメイトなら何かしらねえとおかしいだろうが!!」
そう、思いっきり先程まで座ってたベンチを蹴り飛ばしてくる不良。まあ、嘘だ。どこの部屋に行ったのか知ってる。あいつの身から出たサビだ、言ってやってもよかったが、なんとなく、まあ、目の前のこの男たちの態度がただ純粋に気に入らなかったのだ。俺は。
「テメェの男庇ってんのか? お熱いじゃねえの」
「あの薄汚え野郎にそこまで惚れ込んでるなんてな。あんなキモ男のどこが良いんだ?」
「余程セックスがよかったんだろ」
「サイテーだ、お前」
人が黙って聞いてることをいいことにゲラゲラ笑い出す連中の笑い声が頭に響き、頭のどっかがブツって切れるのが分かった。
「あの汚えマリモはやだけど、まあお前くらい顔が良けりゃ抱けねえことも……」
そう一人が歩み寄ってきて、伸びてきた手に顔を触られそうになった瞬間、体が勝手に動いていた。伸びてきた腕を思いっきり掴み、そのまま引き寄せて顔面に肘を叩き込む。何かが潰れるような音がした。
「っ、ぐ、ぎ、て、んめ……ッ!!」
そのまま蹴り飛ばせば、殴った男は鼻血を吹き出しながら顔を抑える。一部始終を見ていた周りの連中はまさか俺が抵抗するとは思わなかったらしい。
「こいつ、やりやがった……」
「おい、ぶっ殺せ!!」
何言ってんだよ、そっちからふっかけてきたんだろう。なんて俺の言葉を聞く耳持たなさそうな野蛮な連中だ。
頭狙って振り被ってくるバットを屈んで避け、そのままその手を蹴り上げる。
手から落ちるバット拾い上げ、殴りかかってきた不良2の顎をバットの持ち手で突き上げるようにぶん殴ればそのまま引っくり返って地面でのたうち回り始めた。
「こいつ……っ」
「先輩方、正当防衛って知ってます?」
獲物を使うのは趣味ではないが、悪いのはこいつらだ。人が最低の気分のところ、唯一安らぐ飯の時間を狙ってきたのがだ。
「……こんなもん持って襲いかかってきたんだ、何されても文句言えないよな?」
やりすぎると報復が面倒だとわかっていたが、多分、あらゆる理不尽に俺の理性を司る部分がガバガバになっていたのだろう。もうどうだってよかった。要するにヤケクソだ。岩片なんて、どうでもいい。ゲームだってもう勝手にしてくれ。俺を巻き込むな。ありったけの思いの丈を物理的にぶち撒け、気付けば立ってるのは俺だけしかいなくて。一人、地面を這い蹲っていたリーダー格らしき男の顎を爪先で蹴り上げ、顔を上げさせる。
鼻血でべっとりと汚れたその顔は痛みで歪む。ひっ、と情けない声を漏らす不良に顔を寄せた。
「誰の差金だ?」
「ぁ……が……ッ」
「なあ、先輩。教えてくれたらこれ以上はなんもしねえから教えてくれよ」
「っ、う、……ぅう……」
「あ? なに?」
舌でも噛んだのか、なんて言ってんのかわかんねえ。埒が開かないのでそいつの携帯を制服から取り出す。取り返そうとする男の顔をもう一回軽く蹴り飛ばしてやればどうやら最初ぶん殴ったところと同じ場所にヒットしたらしく、悶絶し始める不良。お気に入りの白いスニーカーが汚れてしまった。洗わねえとな、と思いながら携帯の着信履歴を調べる。そして、ビンゴ。よく知った名前がそこには記載されていた。
「……なるほどな」
そこにあったのはあまり見たくない名前だった。
能義有人。
あいつ、岩片にコイツラをけしかけるつもりだったのか。
それとも最初から狙いは俺か。……どちらにせよ、俺が返り討ちにするとは思わなかったのだろう。
……本当に、面倒だな。携帯を仕舞い、俺はまだ携帯を取り返そうとしがみついてくる不良を蹴り飛ばす。
五条からあいつの目的は聞いていたが、正直、洒落にならない。
とにかく、岩片に知らせなければ。そう、自分の携帯を取り出そうとして、引っ込めた。
俺にそんなことをする義理はない。つーか、あいつなら一人でもなんとかなりそうだし。そうだ、知るもんか。たまには俺みたいに痛い目を見やがれ。そう思いながらその場を立ち去ろうとしたとき、背後で影が揺れた。
風を切る音に反射で振り返ったときだった。
すぐ目先に迫るバットの切っ先を避ける暇など、俺には残されていなかった。
『お前は爪が甘すぎるんだ』という岩片の笑い声が聞こえたような気がした。そして次の瞬間、凄まじい音が響いた。違う、その音は俺から聞こえてきて。
ホームラン、なんて口の中で呟く。そしてブラックアウト。
因果応報とはよく言ったものだ。
踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだろう。割れるような頭の痛みに最悪のコンディション。
「っクソいてぇ……」
数分気絶してただけだと思ったが、どうやら違うようだ。目を覚ませば見覚えのない場所に来ていた。
ここは……どこだ。どこかの空き教室のようだが、机も椅子も片付けられており、俺はその中央の椅子に縛り付けられているようだ。身動きはおろか、少し動いただけでも胃の中のものまで締め付けられるような感覚が気持ち悪い。
なんなのか、今日は厄日か?……いや、今更だ。
とにかく、この縄をどうにかさえすれば逃げるのは容易そうだ。見張りすらいない静かな部屋の中、後ろ手に束ねられた腕を擦り合わせるようになんとか抜こうとしたときだった。教室の扉が開く。
そこから現れたのは見覚えのある男だった。
真っ直ぐに伸びた背筋、艷やかな黒髪、そして俺を見つけると嬉しそうに頬を緩めるこの男は――。
「ようやく目を覚まされましたか、尾張さん」
「能義、お前……」
能義有人はまるでいつもと変わらない様子だった。それはもう腹立つくらい、まるで悪いことなどしていませんと澄ました顔をして俺の前に立つのだ。
ムカついてムカついて、言葉にならなかった。睨めば、能義は「まあまあ」などと宥めてくるのだ。
「そう怒らないでください。私はただ尾張さんを連れてきてほしいとお願いしただけです。……こんな手荒な真似、おまけに貴方の体を傷物にするつもりはありませんでした」
これほどまでに信用ならない言葉も珍しい。
この男は目的のためならばなんでもすることを知ってる俺は今更コイツの言葉を信じるつもりは毛ほどなかった。
「ほら、見てくださいこの曇りなき眼を」と自分の目を指す能義。曇りしかねえよ。というか喧嘩売ってんのか。
あまりにも悪びれない、寧ろ何が悪いんだというかのように開き直る能義に突っ込む気力すら沸かなかった。
「……あのな、やっていいことと悪いことがあんだろ。……――目的はなんだよ」
あまりの馬鹿馬鹿しさに怒りを通り越して言い聞かせるような口調になってしまう。尋ねれば、能義は少しだけ不思議そうな顔をした。
「おや、おかしいですね。それはもうご存知のはずでは? あの空気よりも軽い口の男から色々聞いたんでしょう」
五条の顔が浮かぶ。やはりと思ったがあの男能義に捕まったのか、つーかどこまで筒抜けなんだよ。無害そうな顔して有害でしかない目の前の男が余計不気味だった。
そうなると、必然的にこの男の目的は絞られる。――岩片か。
「恋に障害は付き物。あればあるほど燃え上がる二人の恋……というのはよくありますからね、岩片君にはこんなものを予め手渡しております」
『こんなもの』と言いながら制服から取り出したのは封筒のようだ。シワ一つないその真っ白な封筒の中から用紙を取り出した能義はその中身を見せてくれた。
そこに書かれていたのは至ってシンプルでわかりやすいものだった。
「『尾張元は頂いた』……って、これ……」
「脅迫状です」
「きょ……っ脅迫状……?」
内容はこの教室に誘き寄せるためのもののようだが、あまりにもベタ、というか岩片がこれを読んだところで『馬鹿馬鹿しい』と鼻で笑って捨てる未来が見える。
けれど能義はそんな俺に気付くどころか自信たっぷりに微笑むのだ。
「ええ、これを岩片君のロッカーの中にそっと入れてます」
その能義の言葉に俺は暫し思考を停止させた。
そして、恐ろしいことに気付く。
「なあ……そもそもあいつ基本ロッカー使わないから気付かねえと思うんだけど」
「……………………」
沈黙。なんだ、こいつまじでガバガバだな。なんでもやるわりに雑で強引すぎんだよ。なんで俺がちょっと哀れに思わなきゃなんねーんだよ。
能義は深刻そうな顔をして「なるほど、通りでやけに未使用感あると思ったらそういうことでしたか」と一人納得している。せめて下調べくらいしてくれ。……突っ込みきれねえ。
「こうなれば仕方ありませんね、あまりこの手は使いたくなかったのですが……岩片さんは私の後輩から直接……」
呼び出させてきましょうか、とかなんか言おうとしたのだろう。能義が携帯端末を取り出したのと、教室の扉が吹っ飛んだのはほぼ同時だった。
見張り番らしき大柄な生徒が床に倒れ込む。派手な音を立て倒れる扉。そして、元々扉がハマっていたそこから現れた影にぎょっとした。
「尾張! 無事かッ?!」
……何度目のデジャヴだろうか。聞き覚えのある荒い声に、大柄な生徒に負けず劣らずの長身の男。前もだ、神楽のときも、風紀委員に捕まったときも、こいつは助けに来てくれた。
なんでここに、という疑問よりもその声が聞こえてきた瞬間、心臓が反応する。「政岡」と、その名前を呼ぼうとしたときだった。携帯を手にしたまま能義は現れた政岡を見て目を細める。いつもニコニコしてる能義には珍しく引きつったものだった。
「……おや、まだ貴方の出る幕ではありませんよ、会長」
「尾張、その顔……ッ!! 有人この野郎、よくも尾張に怪我を……ッ!!」
能義の話聞いてねえし、つうかそっちはお前に殴られた方だ。というツッコミを入れるよりも先に殴りかかる政岡に能義はひょいとその殴りを避けてみせる。
そして、政岡の射程距離から離れた能義は演技がかった仕草で肩を竦めてみせた。
「貴方は私の計画を丁寧に一個ずつ潰していく天才ですね。……余計な真似さえしなければ放っておいてやるつもりだったのですが、こうなったら仕方ないですね」
そう、能義が指を鳴らした瞬間だった。残った教室の扉が一斉に開いた。そして現れたのは長身である政岡よりも更にデカくて屈強な生徒ばかりだ。お前ら本当に高校生か?と疑いたくなるほどの人相の悪い輩たちは各々獲物を手に教室へと入ってくるのだ。そして、連中を背に能義は笑った。
「これ以上私の計画を邪魔するのならば会長と言えど容赦するつもりはありません。……ですが、尾張さんを置いてここから出ていくのならば見逃してやっても」
「っしゃオラッ!! 歯ァ食いしばれ!!」
能義のセリフを遮るように政岡の側にいた野郎を思いっきり蹴り飛ばす政岡に、俺も、能義も、そして愉快な仲間たちもが凍り付いた。――ただ一人殴られたことを理解できないまま倒れる不良を除いて。
「会長、貴方……」
「うるせえ、前々からテメェのことが気に入らなかったんだよ!尾張には馴れ馴れしいしよぉ……いい機会だ、かかってこいよ、テメェのその不愉快なツラ俺が整形してやる!!」
目算二十人以上はいるのではないかという連中を相手にこの煽り、正気の沙汰ではない。頭が痛くなる。馬鹿じゃないのか。相手武器持ちだぞ、リンチだリンチ。こんなの、逃げろよ。
俺の意思なんて総無視で始まる乱闘騒ぎ。
千切っては投げ、殴られ、殴り返す。広くはないこんな教室でそんなことやってみろ、敵も味方もわかったもんじゃない。それでも、喧騒の中、政岡に見つかるよりも先にドサクサに紛れて俺を別の場所へ移動させるつもりだったのだろう。一人の生徒が俺の拘束を解いたとき、その鼻っ柱に思いっきり肘打ちを食らわせる。
何をやってんだ、本当。思いながら、捕まえようとしてくる連中の胸倉掴んで近くの不良連中に向かって投げ飛ばした。遠くでは政岡の咆哮が聞こえていた。
そして、十分もせずに片は付いた。
死屍累々、額やら鼻やらから血を垂れ流して呻く魍魎たちの山の上、連中から取り上げた木刀を手にした政岡の前、そこには同様バットを手にした能義が立っていた。
二人共、無事ではなかった。特に政岡の方は頭から血が流れてる。けれどもそんなこと構うものかと睨み合う二人。そのとき、ほんの一瞬。確かに時間が停まった……そんな錯覚を覚えた。
艷やかな髪を乱れさせた能義は、目の前の政岡に向かって薄く笑い――そして倒れた。
「っ、政岡……」
……こいつ、まじでやりやがった。
乱暴に竹刀を投げ捨てた政岡は、そのまま俺の元へとやってくる。俺の前までやってきた政岡、その額からは血がだらだらと流れている。よく見ればボタンも引き千切られてるし、背中になんか刺さってる。
「お前、無茶苦茶過ぎだろ。……血も出てるし、刺さってるし」
「こんなの、全然痛くねえ」
「嘘だ」と擦り剥けた頬に触れれば、政岡は俺の手を握り締めた。触れただけで火傷しそうなほど熱く、硬い手のひら。
「……尾張に比べたら、全然痛くも痒くもねえよ」
まるで、褒められるのを待つ犬みたいな顔でそんなことを言うのだ。
ああ、と思った。全部を許したわけじゃない、今だって思い出したくないほどムカつくけれど、それでもこうして助けてくれた政岡を前にすると何も言葉が出なかった。ありがとうも、余計なことをするなとも、何も言えなくなる。俺は、ぐちゃぐちゃになっていた政岡の髪をそっと撫でた。くすぐったそうな目、それでも、政岡は俺の手を振り払うことなく受け入れるのだ。
「……お前って、本当に……」
馬鹿みたいに真っ直ぐで、おまけに有り得ねえことも平気でするし、かと思えば変なところで気にするし、まじで理解できない。
けど、そんな政岡だからこそ、なんだか今回も来てくれるのではないかと心の何処かで期待していた自分に気付いた瞬間、体の力が抜けそうになる。
「っ、お、わり?」
「……っ、……」
「お、おわ……尾張……?!」
ああ、くそ、なんだこの気持ち。ムカつくのに、腹立つのに、いつも通りの政岡を見るとそんな鬱憤もどっか行くくらいほっとしている自分に気付いてしまった瞬間、困惑する。政岡に刺さっていた小型のナイフを引き抜けば、やつは少しだけ息を漏らした。脳内麻薬で痛みが麻痺してるだけだ、感覚がないわけではない。そんなの、俺よりも喧嘩慣れしてそうなこいつの方が詳しいに決まってるのに、こんな無茶するのだから手のつけようがない。
取り出したハンカチで政岡の額の血を拭えば、政岡は目を細めた。
「ぁ……」
「あんま、無茶なことすんじゃねえよ」ありがとう、という言葉は喉で突っかかって出てこなかった。それでも、政岡は気持ち良さそうに目を細め、「わかった」とだけ応えたのだ。
「いいから、病院に行くぞ」
「だから、これくらい大したことねえって」
「駄目だ、刺されたんだぞ。ちゃんと治療してもらわねえと菌でも入ったりでもしたら……」
「これくらいの怪我なら自分でなんとかできる」
「なんとかって……」
どれくらいそんなやり取りをしていたことだろうか。
あれから政岡は自分の舎弟を呼んで気絶した能義たちを保健室へとまとめて運び込ませていた。なのに、自分はというと『なんとかなる』の一点張りだ。
政岡の部屋。
保健室も嫌がるので流石に後が怖すぎるだろと口を酸っぱくして言えば、政岡は自室に薬とかがあるから自分で手当するという。助けてもらっておいて怪我人を自分で手当させるなんて真似できない。だからこうして政岡の手当をするために部屋へとやってきたのだが……。
「……信じらんねえ」
最悪散らかってようがそこら辺にエロ本が転がってようが別にそんなの人それぞれだしバイブ転がしてる神楽や、ほったらかしていたら汚部屋にする天才である岩片を知ってる俺は今更大抵のことでは辟易することもないと思っていた。けれどだ。
『薬とかがある』そう言って政岡が持ってきたケースから出てきたのは徳用傷口薬一本だ。つかこれいつのだよ。色がくすんでるように見えるんだが。
「つーか包帯は? ガーゼは?」
「あれ、邪魔だからすぐ剥がして使わねえし……」
「…………」
なんのためのガーゼだ、包帯だ、というツッコミはもう口にするのも馬鹿馬鹿しくて言葉にならなかった。ただ頭が痛い。まさかこいつ本当に傷口にこのいつのかわかんねー謎の沈殿物すら見える薬をじゃぶじゃぶ掛けて放置して治してきたんじゃねえだろうな。
頭を抱えていたときだ。
「あ、包帯あったぞ尾張!」
「それはテーピングテープだっ!」
…………。
それから暫く、傷口を清潔にして取り敢えず政岡の免疫力を信じてあるもので手当をしていく。
脱ぎ散らかした服がそのままになってるベッドの上。大人しくちょこんと腰を下ろした政岡と向かい合うように椅子を持ってきた俺は政岡の額の傷に消毒液をかける。
「……っ、つ……」
「痛むんだろ? ちゃんとしたところで見てもらった方が……」
「っい……ったくねえって言おうとしたんだよ」
どんな誤魔化し方だ。
強がりもここまでくると一層清々しい。思いっきり顔顰めたくせに、手当してる俺だって痛そうだと思うのに何に対して強がってるんだ。
政岡らしいといえば政岡らしいのかもしれないが。
「知らねえからな、どうなっても」
血は止まってるようだが、そろそろ脳内麻薬も薄れて痛みがもろに来る頃だろう。よく見れば、顔もところどころ腫れてるし、それなのに政岡は「こんなの余裕だ」なんて踏ん反り返るのだ。
……本当に、弱音を吐かないやつだ。
「後ろ、背中向けろよ」
「お、おう……!」
政岡は少しだけたじろぐように俺に背中を向ける。そして、上に着ていたシャツを脱ぎ捨てた。
別に男の肌を見たところで何を感じることもなかったが、政岡の背中を見た瞬間息を呑んだ。
刺し傷や痣もだが、それ以上に背骨から肩甲骨付近にかけて引っ掻くような無数の爪痕があまりにも痛々しかったからだ。
「これ……」
どうしたんだ、とそっと触れたとき、指先の熱に思い出した。あの日、あの夜、覆い被さってくる政岡の下、わけわからずその背中にしがみついたことを。まさか、とじわじわと込み上げてくる熱に、俺は見なかったふりをする。
熱い、触れただけでもわかるほどの政岡の熱とその心臓の音。鋼かなにかのような硬い筋肉に覆われたその体は見てもわかるほど頑丈だ。目立つほどの大怪我はない。刺された箇所は出血が激しかったが、傷自体は浅いようで安堵する。こうしてみると一番痛そうなのが爪痕だったが、敢えて俺はそのことを口にしなかった。
それから、俺たちの間に妙な沈黙が流れる。ソファーの上、胡座を掻く政岡の背中に消毒液をかける。持っていた絆創膏でなんとかできそうな傷は手当していくが、きりがない。大きな怪我はないが、細かい怪我は多かった。
……というか、なんだよこの沈黙。向かい合わずに済んだのが幸いか、やつの裸くらいで狼狽えてる自分が嫌で、俺は咄嗟に口を開いた。
「なあ、どうしてあそこに来たんだよ」
「どうしてって、そりゃ……聞いたからだよ。あいつの舎弟連中が尾張を捕まえたとか話してるの聞いて、それで……後着けたらあのザマだ」
「でも、だからって無謀過ぎんだろ。あの数……普通逃げるだろ、それに……」
それにお前、俺のことムカついたんじゃないのかよ。
少なくとも、政岡からしてみれば俺は騙そうとしてきた相手なわけだ。それに、最初はどうであれ政岡の好意も全部蔑ろにしたのも俺だ。
「……なんだよ」
「それに、俺のこと助ける必要なんてないだろ」
もう、俺達にはそんな小細工なんて必要ないはずだ。
それでもこうして怪我してまで無茶する政岡のことが理解できなかった。……否、理解したくなかったのかもしれない。
「……必要とか、必要じゃねえとかそんなの関係ねえよ」
「やっぱり、政岡って……変だ」
「へ、変だとっ? どこが……」
「……全部。俺が政岡なら、俺のことなんて放ったらかしてさっさと逃げるよ」
そう、返したときだった。いきなり政岡がこちらを振り返った。手首を掴まれ、心臓が大きく跳ねる。
「おい」と、思わず声をあげたとき。抱き締められた。そう気付いたのは背中に回された腕と、温もりに包まれる体に気付いたからだ。
「っ、……おい、政岡……」
「お前は逃げねえだろ」
離せ、と抵抗するより先に聞こえてきたその声に体が硬直した。怒ったような気配すら感じる、真剣な声。
「……俺みたいに勝手に怪我したやつを心配して、手当してくれんだ。……そんなやつの方が、俺からしてみりゃよっぽど変わり者だな」
「……っそれは……」
放っておけないから。俺のせいだから。
……お前だから。
深い意味なんてない、はずなのに。そう指摘されれば何も言い返すことができなかった。
心臓の音が煩い。胸の内側で無数の虫が這い回るような気持ち悪さ、落ち着かなさに全身がぞわぞわした。
顔が熱くなるのがわかったからこそ、俺はあいつの顔を見ることができなかった。
「……いい加減、離れろよ」
いつまでこのままでいるつもりだとやつの胸を押し返せば、政岡も気付いたらしい。気恥ずかしそうに、視線を外した。
「っ、わ、悪い……ありがとな、その……」
「別にいい。借りは返す主義なんでね」
……自分でも、甘いことを言ってると思う。
口も利きたくないと思っていた相手を、こうして手当してやること自体自分でもおかしな状況だと思った。
政岡零児――全部、この男のせいだ。この男といるだけで、調子狂わされるのだ。
このままここにいるわけにも行かない。
「それじゃ、邪魔したな」と立ち上がろうとすれば、政岡が驚いたような顔をしてこちらを見上げた。
「帰るのか? ……危ないんじゃないか?」
「能義はアンタらが見てくれてんだろ? それに――」
……アンタといる方がよっぽど。そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
絆されるな、と自分を叱りつける。こいつにされたことを思い出せ。今回は、こいつに借りをつくりたくなかっただけだ。
そう自分に言い聞かせるように何度も頭の中で繰り返す。
そのまま政岡の部屋を出ていこうとしたときだ。
「何かあったら、すぐ呼べよ」
「……そうならないことを祈るしかないな」
最後の最後まで、政岡は変なやつだった。
何もなかったかのように、というわけではない、あいつ自身意識してるのは丸わかりだ。それでもきっと、政岡は今回のことで俺が許したのだと思ってるに違いない。
俺も、俺だ。……助けてもらったとはいえ、元はといえばこいつらのせいだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は部屋を出た。
やけに体が熱いと思いきや、後頭部、殴られた頭がズキズキと痛みだした。汗まで流れてきたと思えば、指先に血がべっとりとついてるのを見て思わず「げ」と口から漏れた。
昨日の今日で保健室のお世話にはなりたくない。
ぶっ倒れる前に、大人しくしておいたほうがよさそうだ。
ふらつきそうになる体を引きずりながら、俺は自室へと帰った。そしてそのままシャワーを浴びて、汗と血を洗い流し、倒れるようにベッドへと飛び込んだ。
一人になってからどっと疲れがやってきたようだ。俺はそのまま気絶するように眠りについた。
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