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次に目が覚めたら変な時間だった。
飯もろくに食わずに寝たせいか、腹がめちゃくちゃ減っている。
「岩片、飯……」
食いに行くか、と口にしながら起き上がったところでこの部屋に自分以外の人間がいないということを思い出した。
「……」
……そうか、あいつとは部屋変わったんだった。
寝過ぎたせいでそのことをすっぽりと忘れてしまっていたようだ。返って虚しくなる。
……アホらし。
ベッドから降りた俺は、そのまま眠気覚ましに顔を洗いに行く。
岩片がいないというだけでここまで静かになるものなのか。寝てるところを叩き起こされることもなければ、散らかることもない。
一人部屋がこんなに快適だとは思わなかった。
濡れた顔をタオルで拭っていると、部屋の扉がノックされる。
咄嗟に携帯の時刻を確認する。もうそろそろ夜中の二十三時になる頃だ。
誰だよ、こんな時間に。この非常識っぷりからしてまともなやつではなさそうだが……。
ふいに岩片の顔が脳裏に浮かび、慌てて思考を振り払った。んなわけがあるか、そう思うのに無視することもできなかった。
念の為だ、念の為。もしかしたら岡部や馬喰の可能性だってある。
「はい」と、渋々扉を開けた瞬間だった。
「元君っ、副かいちょーに虐められてかいちょーに助けられたって本当なのぉ~~?!」
俺は無言で扉を閉めた。
『ちょっとちょっと~~! なんで閉めるの元君~~!』
こんな時間にやってきたのがよりによってお前だからだよ。と言うツッコミすらする気になれなかった。どんどんと扉を叩きながらわざとらしく泣きわめく神楽。このままでは近所迷惑もいいところだ。
クソ、無視しようとしても絶対に粘るだろうしな……。
仕方なく扉を開けば、「元くーん!」っと子犬みたいな顔をした神楽が抱きついて来ようとして、寸でのところで避けた。
「……それ、誰から聞いたんだよ」
「えー? なにが?」
「能義のことだよ」
「うーんとねぇ、俺の後輩?」
なんで疑問形だよ、というツッコミは飲み込み、俺は神楽から距離を取る。
「とにかく、別にもう済んだことだから気にすんなよ。あと近所迷惑だから大声出すなって」
「もーっ、そんなことばっか言っちゃってさ~~? 怪我は大丈夫なのー? 痛いの痛いの飛んでいけーってしてあげよっかぁ?」
「気持ちだけ貰っておく」
「悪いけど、今日疲れてるからまた今度な」また会うつもりなど毛頭もないが、ここはこう言わなければこいつが引き下がらないことはわかっていた。
やたら部屋に上がろうとしてくる神楽をとにかくやんわり追い返そうとするが、この男、やんわりした忠告はまるで効果がない。
「まあまあそんなつれないこと言わないで……あっ、そうだ、俺が添い寝してあげよっか~~?」
もっといらねえよ。
「おい、神楽いい加減に……」
帰れよ。そう、しつこさに痺れを切らしかけた矢先のことだった。
通路の奥から響く硬質な足音。
そして、
「……相手にされねえからってとうとう押し掛けかよ」
鼻につくような上から目線。そして、傲慢さが滲み出るその声。顔を上げた視線の先――そこには、会いたくない男がいた。
「流石モテるやつの行動はスマートだな、色男さんは」
隠す気もない皮肉たっぷりなその言葉に、俺も、神楽も言葉を飲み込んだ。通行人A、もとい岩片凪沙は変わらない余裕綽々な態度でそう冷たく笑うのだ。
「岩片……」
「出たなこの不潔もじゃ……っ!」
なんつータイミングだ。
どんな顔をすればいいのか分からず、きっとやつから見た俺はさぞかし滑稽な顔にしてたに違いない。
けれど、岩片の態度はあくまでいつもと変わらない。噛み付いてくる神楽のことなど纏わり付いてくる子犬かなにかと思っている様子で。
「通路、塞がれると邪魔なんだけど」
「はあ?アンタの部屋こっちじゃないんだろーが、こっちは調査済なんだっての!」
「なら調査不足だな、やり直してこい」
「え」と思ったときには遅かった。俺の元までやってきた岩片に肩を掴まれる。なにするんだ、と振り払うよりと先に俺を扉の奥、自室へと押し込んだ岩片はそのまま俺の部屋に入ってきやがる。
「って、な……! おい、お前……っ」
目の前で閉められる扉。岩片は後ろ手に手慣れた手付きで施錠までしやがった。この間三十秒もなかった。
扉の外からは『おい! なにやってんだよ! 出てこいもじゃ!』と神楽の声とともにドンドンと勢いよく叩かれる。
「……はぁ。あいつ、キャンキャンうるせーな」
「っ、……お前、言ってることとやってること無茶苦茶だろ……っ!」
「言っただろ。……スマートな押しかけは基本だって」
いけしゃあしゃあとそんなことを言い出す岩片に頭が痛くなる。どこまでも人のことをコケにしなきゃ落ち着かないのか、こいつは。
「ふざけ……っ」
ふざけんなよ、とやつの胸倉を掴むよりも先に、伸びてきた手に額に触れられ、ぎょっとする。髪に絡めるように触れるその指もまだ、目の前に迫るやつの顔に、思い出したくもないことまで思い出してしまい思考が停止するのだ。
「有人たちにやられた傷は」
「……っ、触るな」
「痛むのか?」
違う、そう素直に答えるのも癪だった。
こんな時ばかり心配するような優しいふりをしてくる。そうすれば、俺が喜ぶと思ってるのだ。だからこそ余計、素直になることはできなかった。
「……今更、お前に関係ないだろ」
「ある」
即答だった。凍り付く俺を無視して、やつは俺の髪を掻き分けるように頭を撫でてくるのだ。やめろ、と必死に岩片を引き剥がそうとするが、クソ、コイツどこから力出してんだ。びくともしねえ。
「っやめろ、触るな……」
「ここ、腫れてるな。熱も持ってる。お前のことだ、未来屋にごちゃごちゃ言われたくねーから顔出してねえんだろ。精々冷やしたくらいか」
「……っ、だったら何だよ、俺の勝手だろ」
殴られた頭部を触れられ、体が反応しそうになるのを堪えながら俺はなんとか岩片の腕を跳ね除ける。
「ああ、そうだな」と岩片。眼鏡の下、どんな表情しているかわからなかったがそこにいつものような笑みはないことはわかった。
「だから、これは俺の勝手だ」
「は……って、おい、勝手に上がんなよ……っ!」
まるで自室みたいに部屋に上がり込む岩片。
今はもう相部屋じゃないんだぞ、嫌がらせかこいつ。岩片は勝手に冷蔵庫の中を確認し、慌てて止めようとしていた俺をみた。
「風呂入ったのか。飯は?」
「は? ……食ってねえ、けど……」
「だろうな。どうせなんの用意もしてねーんだろ」
「っ、いやつか勝手に人の冷蔵庫漁ってんなよ、おい……っ!」
「おい」と岩片の腕を掴んだとき、伸びてきた手に顎を掴まれる。それは一瞬の出来事だった。開きかけた唇に自分の唇を押し付けてくる岩片。ちゅ、と音を立て離れる唇。俺はあまりにも突拍子ないトンチキなこいつの行動を理解することができなかった。
「……うるせぇ口だな。少しはおとなしくしろ」
怒り心頭とはまさにこのことだろう。頭に血が登るのがわかった。けれど、言葉が出てこない。文句の一つや二つ、百つほど言えるのに、それなのに言葉は喉に突っかかってしまう。
「ふ、ざけ……んなよ……」
かろうじて喉から絞り出した言葉に、岩片は笑った。
あの腹立つほどの上から目線の笑みだ。
「……ま、一応瘡蓋にはなってるみたいだな。風呂入るんならお湯かかんねーようにしろよ」
「んなこと、お前に言われなくても……」
「ああそうかよ。じゃあこれも余計なお世話だったな」
そう、テーブルの上、岩片はずっと腕にぶら下げていたビニール袋を雑に置く。ずっと気になっていた、けれど、その中に入ってるものを見た瞬間、思考が停止する。
弁当に、薬だ。売店で買ってきたのか。なんで。……俺のために?
「……っ、なんだよ、それ。そんなもの、俺は頼んでなんか……」
「ああ、そうだな」
腹立つ、腹立つ、調子を狂わされる。
ムカつくのに、馬鹿にするなって言いたいのに、あの岩片が俺のためにわざわざこんなお使いみたいな真似してるってだけで酷く息苦しい。なんだこれ、ムカムカして、すげ……不愉快だ。
「っ……いらねえ、持って帰れよ」
誰がお前なんかの世話になるか。そう念を込めて睨み返せば、こちらを向いた岩片は「じゃ、捨てろ」と手を上げた。そして、言いたいことだけいってそのまま部屋を出ていく。
「おい、岩片……っ! お前……っ!」
待てよ、というよりも先に、岩片が扉を閉める方が早かった。扉前まで追いかけたが、わざわざ出ていくのもバカバカしくなって、俺は扉に鍵をかけた。
「……まじで、なんなんだよ、あいつ」
飯を粗末にできるわけねえだろ。
……卑怯だ。わかってて、俺が断れねえようなところを狙ってくる。ずっと一緒にいたから俺の性格は俺よりも熟知しているはずだ、それが余計腹立つ。
けれど、ご丁寧に俺の好きなものばっかり入ってる弁当見ると怒りも萎えていく。
ぜってえありがとうって言わねえ。思いながら、俺は一人弁当を平らげた。
何なんだよ、あいつは。もやもやとした気持ちのまま暫くあいつの立ち去ったあとを見ていたとき。
「いやー、王道君も不器用なんだな」
「のわっ!!」
「ぎゃふっ! ちょ、尾張脊髄反射で殴るのやめて! まじで危ねーから!」
何ということだろうか、いつの間にか部屋に入り込んでいたらしい五条は俺の拳を間一髪避けたらしい。派手に尻もちつき、怯える五条だが怯えたいのはこちらの方だ。
「五条、お前いつから……つかどっから……!」
「いやー窓が開いてたから教えてやろうかと思ったんだがなんかいいところだったみたいだったんで隠れてたんだよ、カーテンに巻き付いて」
「不法侵入じゃねえか!」
「待った待った! 気になったんだよ、俺も副会長様に捕まってたところを会長様に助けてもらってさー尾張が危ない目に遭ったって聞いてヒヤヒヤしたし!」
「ほ、ほら! 俺も頭にたんこぶ!お揃い!」と慌てて自分の頭を指す五条。何がお揃いだお前と同じにするなとキレそうになるが、深呼吸。落ち着け。こんなやつ相手に取り乱すなんてらしくないぞ、俺。そうだ、深呼吸……。
……つか、元はと言えばこいつのせいじゃねえか
「う……これ以上にないくらい尾張の目が冷たい」
「お前だろ、能義にペラペラ余計なこと喋ったの」
「そんなわけないだろ!紙よりも口が軽い男と言われ続けてきた俺だけどそれは流石に心外だぞ!ただちょっと変な薬を飲まされて気付いたら副会長様もいなくなってただけで……」
やっぱりお前じゃねえか!というか自白剤を飲ませる高校生がいるか普通、何者なんだよ……!
「お、尾張……?」
「……わかったよ、何言ったって起きたことは起きたことだしな」
「さっすが尾張! 心もイケメンなんだな!」
「……やっぱ腹立つな」
「うわ、ごめんて! まじでこんなことになるなんて思わなかったんだよ、尾張許して……ぷるぷる」
「可愛くねえし口で言うな……」
ツッコミ疲れのせいか、頭が痛くなってきた。
九割この目の前の不法侵入眼鏡のせいであることには違いない。ズキズキと痛む頭を押さえれば、五条は「大丈夫か?! 大丈夫か尾張!!」と心配してくる。声がでかい。
「さっき王道君から貰った薬使うか?」
「……いい。これくらいなら放っておけば治る」
「尾張……」
「つか、あんたいつまでここにいるんだよ。いい加減不法侵入で訴えるぞ」
「うわ、目が本気なんですけどこの子……! 待て待て! すぐ帰るから!」
「……」
普段なら五条の茶番に付き合ってられるのだろうが、今日いろいろあったせいか付き合う気になれなくて、そのままソファーに腰を下ろせば「尾張……」と五条が心配そうな顔をしてくる。
「本当に大丈夫なのか?怪我」
「大丈夫だって、聞いてたんだろ」
「そうだけど……」
「……アンタに心配されるとなんか嫌だな」
「え、な、なな、なんだよそれ……っ!」
普段なら『弱ってる尾張激レアじゃん! 激写激写!』とか騒いでそうなのに、五条にまで心配されるとかよっぽど凹んでるように見えるのか。俺は。もう少しちゃんとしないといけないなと思うが、自分ではわからないのだ。
「……そういや、能義が斡旋してた賭けはどうなったんだ? なくなりそうか?」
「……ん? ああ、それな。副会長の代理がいてそいつがまだ集金はしてるみたいだな。多分これは代理が潰れても代理の代理が用意されてるから無理だと思うぞ」
「……そうか」
別に儲けさせるつもりは毛頭ないが、向こうも向こうでゴキブリ並にしつこいようだ。
「それじゃあ、俺はそろそろ戻るけどなんか用があったら天井2回叩けば降りてくるからな」
「いや帰れよ」
「一人で寝れるか?」
「帰れよ」
「う、尾張の塩対応……!! でもそういう尾張も俺は嫌いじゃねえし寧ろ推せる!!」
「窓は閉めて帰れよ」
「おう! 尾張も施錠は気をつけてな!!」
入ってきた窓から出ていく五条が出ていったのを見て速攻で窓を閉めて施錠する。そしてカーテンも締め切った俺の口からは大きなため息がつい出てしまう。……なんかどっと疲れたが、お陰で余計なことを考えずには済んだ。
……それにしても五条、あいつは誰の味方なのか。調子狂うな、あの眼鏡。
岩片が居なくなって清々するどころか、一人の時間が多くなるに連れて余計なことばかり考えてしまうようだ。
翌朝、目を覚ます。チュンチュンと窓の外では長閑な小鳥の声。カーテンを開き、窓を開ければ生暖かい風が流れ込んできた。
今日は休日だ。授業はない。
さあて、どうしたものか。基本岩片の気紛れに付き合っていたせいか、一人でいるときどう過ごしていたのかが思い出せない。……もう少し寝るか。そんなことをぼんやり考えながら、まだ覚醒しきっていない頭で窓の外を眺めていたとき、訪問者がやってきた。
……いい予感がしねえな。適当な服を着ながら、俺は玄関口へと向かう。「はーい」と扉を開けば、でかい影。
「お……っ、はよ……尾張」
こんな朝っぱらから、というかまあ、九時は回っているが――そこには政岡零児がいた。なにやら緊張した面持ちで、こちらを見下ろすやつに内心俺はぎくりとした。もうこれは、条件反射のようなものだ。咄嗟に後退り、距離を取る。
「……なんだよ、こんな時間から」
「そ、そのだな……具合どうかと思って」
言われて、昨夜のことを思い出した。痛みは大分引いていた。今の今まで忘れてたくらいだからもう完治したと見ていいだろう。
「お陰様でこの通り、ピンピンしてるぞ」
「……そうか」
「……」
「……」
……なんでそこで黙り込むんだ。俺よりもでかい図体してるくせに、まるで叱られる前の子供みたいに落ち着きない政岡を帰そうと思えば帰せたのだろう。
……けれど、それをしなかった。
「お前の方こそ、傷は大丈夫なのか?」
「俺はもう全然っ、ほら、お前のお陰で……」
「そりゃ良かったな」
「……っ、な、なあ……尾張」
「……ん?」
「飯……一緒に、どうだ」
「…………」
政岡も、よくも懲りないやつだ。俺なんて構う必要なんてないと言ってるのに。そんなことしなくてもお前の言う通りにすると。
……まるで初デートにでも誘うかのようなその顔に、毒気すら抜かれる。本当に、勘弁してほしい。
「……アンタの顔見て飯食える気しねえけど」
「……っ、そ、だよな……悪い……」
「いや、俺も……どうせ、飯食いに行くつもりだったから」
「行くだけなら」なんて、口実。
一人のがいいのはある。が、現状、一人で行動するよりもコイツがいた方が都合がいいのは事実だ。また神楽や能義、面倒なやつらに巻き込まれたとき色々助かる。……そんな風に考えられるくらいには、大分回復したのかもしれない。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、政岡はぱっと顔を上げ「本当かっ?!」と俺の手を握る。分厚い手のひらに強く握られ、思い出したくもないことまで頭を過り、思わず俺は政岡の手を振り払った。
「……ぁ、わ、悪ィ……」
「……いや、いい。それより、行くんだろ。すぐ用意してくるから待ってろ」
「お、おう!」
政岡と別れ、再度扉を閉める。そして、俺はその場にずるずると座り込む。じんじんと痺れる手のひらは熱く、まだアイツに握り締められてるような感覚が残っていた。
クソ、クソ。……なんであんな嬉しそうな顔してんだよ、わかってんだろ。俺がどんなやつってくらい。何回騙されんだよ、あいつ。いい加減にしろよ。煮え繰り返りそうになる腹を落ち着かせながら、俺は支度を済ませることにした。
……利用する。あいつも、全部。ゲームなんて俺には関係ないんだ。何度も言い聞かせることで落ち着かせる。
支度を済ませ、部屋を出ればそこには扉の前で座り込む政岡がいた。
「尾張……」
「悪い、待たせたな。腹減っただろ」
「いや、これくらい全然平気だ。つか、お前待つくらい全然……」
「……そうかよ。じゃ、行くか」
自分で自分に引く。ああ、案外笑えるもんだなと。
少しだけ目を丸くしていた政岡だったが、すぐに「おうっ」と俺の後ろからついてくる。嬉しそうに、人に気も知らずにアホ面下げて。
休みの日ってだけあって食堂の中はいつも以上にガランとしてる。まあ、休みなら外で食った方が美味いだろうしな。思いながらも俺は適当な定食を、政岡は朝っぱらから胃もたれしそうな油モノばっか選んでいた。
それを少し離れた席で食う。食事中会話はない。けれど、時折政岡がこちらを見ていたのは視線で感じた。
俺は敢えてそれに気付かないフリをして食事を平らげた。
それから政岡も完食し、さあそろそろ帰るかと席を立とうとした時。
「なあ」と、政岡に呼び止められた。
「この後のことなんだが……その……」
「この後?」と聞き返そうとしたときだった。食堂の扉が開く。滅多に人が出入りしないそこに現れた人物に、俺は息を飲んだ。
岩片と、その隣には岡部がいた。恐らく飯を食いに来ていたのだろう。岡部は俺たちにすぐに気づく、そして、「尾張君」と岡部が俺を呼んだ時、分厚いレンズ越し、あいつの目がこちらを向いた。
「……岩片」
思わずその名前を口にしたとき、政岡は俺の視線の先、岩片へと目を向けた。ああ、最悪だ。最悪だ。よりによって今かよ。
――本当に、厄日だ。
目を見るな。意識するな、平然を取り繕え。
バクバクと響く脈を抑え、息を吐く。気付かなかったフリして食堂を出よう。それが最善だ。そう一人納得しながら立ち上がろうとした横、勢いよく椅子から立ち上がった政岡が岩片の方へと向かおうとしていたのを見て咄嗟に俺は政岡の腕を掴んだ。
「っ、おい、政岡……」
「尾張、離せよ。俺ぁアイツに言いてえことが山ほどあんだよ」
「……っ、いいから、帰るぞ。飯は食っただろ」
掴んだ腕の下。流動する血管、その脈を感じ汗が滲んだ。このままじゃ面倒だ、半ば強引に政岡の肩に腕を回し、背中を押す。あいつに絡むな、そう睨めば政岡は不本意そうだが溜息を吐いた。
けれど。
「まだそいつといんのか」
「ハジメ」と、あいつは政岡を見て笑った。その言葉に、焼けるように喉がひりついた。怒りとも、悔しさとも似た、よくわからないがこびりつくような不快感に言葉を一瞬忘れたとき。政岡が岩片に飛びかかろうとするのが分かり、咄嗟に俺は「政岡」とやつの腕を掴んだ。
「……っ、行くぞ、いちいち相手にすんなよ」
「尾張、お前は……」
「いいから」
行くぞ、と政岡の背中を押し、半ば無理矢理食堂を出ていこうとしたとき、あいつとすれ違った瞬間確かに目が遭った。口元には薄い笑み。けれど、肌でわかった。あいつは笑っていない。こちらを追うその目に、粘り気のある絡みつく視線に、嫌な汗が滲む。けれど無視。俺はそれに気付かないフリをした。
食堂を出ても暫く俺は政岡から手を離さなかった。
手を離したら今度こそあいつを殴りに戻りそうだったからだ。ロビーへと続く人気のない通路まで戻ってきたとき、俺は手を離そうとして、政岡に手首を掴まれた。
なに、と言い掛けて、視界は影で遮られる。唇に触れる熱、そこでようやく俺は自分がキスをされてると気付いた。こんな場所で、となんてそんなこと言ってる段ではない。手首を掴む肉厚な手のひらに、噛み付くように唇を貪られ、舌を絡め取られる。
「っ、ふ、……っ、ぅ……ッ」
コイツ、油断した途端これか。怒りで頭に血が上る。咄嗟に政岡の胸を殴るが、鉄板でも入ってんのかってくらい硬い上半身はびくともしねえ。それどころか、後頭部が後方の壁にぶつかった。ぢゅ、ぢゅぷ、と濡れた音を立て絡められる太い舌に咥内を隈なく舐られ、味わい尽くされる。
それだけで忘れたかった熱を無理矢理呼び起こされ、掻き乱される。咄嗟にその舌に歯を立てれば、鈍い感触とともに口の中の舌が跳ね、そして政岡は俺から唇を離した。
「っ、お、まえ……いい加減にしろよ……ッ!」
「……っ」
「っ、お……い……」
何か言えよ、と睨むのも束の間、青筋が浮かんだやつの額に、据わったその目に息を飲んだ。硬い指先に顎を掴まれる、強引に顔を上げさせられれば、すぐ目の前には熱に濡れたやつの目があり、無意識に全身に力が入った。
「……お前は、俺と組むんだよな」
地を這うような低い声。思い出したくもない、あのとき以来だ、政岡のこんな冷たい声。確認するように顎の下をなぞられ、体が反応しそうになる。「そう言っただろ」と言い返せば、やつの目が細められた。
「……じゃあ、証明しろよ。アイツじゃなくて俺を選ぶんだって、お前の口で」
「証明してくれ」そう、繰り返す政岡の言葉に、熱に、俺は一瞬言葉に詰まった。何を求められているのか、その目で、肌で理解してしまったからだ。冗談ではない、何故俺が証明しなきゃならないのか。寧ろ、信じさせるべきはお前の方だろう。そう言いたいのに、耳に触れる指に、ぞくりと肩が震えた。
「――証明しろ、尾張。俺のこと、好きだって言えよ」
切羽詰まった声、隠そうともしない醜悪な嫉妬心。その牙を剥く政岡に、あいつと重なった。
――好きだって言えよ、ハジメ。
強請るような目、言わせようとする。何を求めてるのか、求められてるのかわかった。
結局、こいつも同じなのだ。アイツと。ああ、馬鹿馬鹿しい。言葉一つ、どうだっていいはずだ。けれど、俺はその一言が言えなかった。口にすることを憚れた。理由もわかっていた。とっくに破綻していた関係を、それでも頑なに保とうとして意地を張った。その結果がこれだ。
プライドなんて無駄なものだ、痛いほど理解していたつもりだったのにそれを思い出させたのはこの男なのだから因果なものだと思う。ならば、また壊せばいい。
「……好きだよ、政岡」
今更守るのものなどなにもない。平穏なんて元々求めていない。何もない、何も残らない。俺には最初から岩片しかなかった。
「……好きだ、お前が」
あれだけ岩片に口にすることが憚れた言葉は、この男にはあっさりと口にすることができるのだからおかしな話だ。最初から、こうしていれば、答えていれば、何かがまた違ったのだろうか。そんなことを考えながら、俺は政岡から手を離した。けれど、すぐにその指先を絡め取られ、腕ごと抱き締められる。またキスされるのだろうかと身構えたが、あいつは何もしてこない。ただ、俺の肩口に顔を埋めるのだ。
「……っ、もう一回、言ってくれ」
「好きだよ。政岡」
「……ッ、尾張」
「…………」
不毛だ。思いながら、俺は抱き締めてくる政岡の腕の中、自分の中のなにかがまた音を立てて壊れていくのを聞いていた。
傷つけ合って、何も産まないと分かってても無い物ねだり。不毛だ。不毛。馬鹿みたいだと、あいつ自身もわかってるのだろう。好き、と口にすればするだけ、あいつは傷ついたような顔をするのだ。お前が言ったくせに。言えって。ならもっと嬉しそうな顔をしろよ。なんなんだよ、お前。
「……政岡」
そう、無意識に俺はやつの名前を呼んでいた。何を言おうとしていたのか自分でもわからないが、それでも、呼ばずにはいられなかった。けれど、あいつは俺の方を見ない。ただ、項垂れるのだ。その赤い頭に手を触れようとしたときだった。
「……おい、何をしてる」
手が触れる直前、いつからそこにいたのか。五十嵐彩乃はそこに立っていた。
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