五「蒼空を断つ二人」

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 がおん、と鈍い音を立てて鋼鉄の甲板がめくれ上がる。シノニムの風の攻撃が、全く鋭さを失っていないのを見て、原理は恐ろしいなと漏らす。同時に小さく笑んで、可愛いもんだよ、とも呟いた。  速度で同等であっても、追いすがるので精一杯だった。 「回避が巧いんだよ、こっちの攻撃じゃあ崩せないだろうな」  司令室にそういうと、清籠の声が応じる。 『だが、それでいいのだろう? 今の君の役割はシノニムを誘導するだけなのだから』 「解ってはいるけど。この方向だとどんどん艦の先端に向かっていっているだけじゃねえか、これで本当にいいのかよ?」 『飛翔できないなら、どこかで折り返すだろう。君はすれ違いで殺されなければいいんだ』  簡単に言うなあ、と呆れ気味の原理だったけれど、それを声には出さなかった。  それに、時間を稼ぐならばそれでも充分だと知っているし、さっきから隙を見てシノニムに催眠のコードを打ち込んでいる。  付け焼刃の『幻惑傀儡』がどこまで通用するかは判らないけれど、やるべきことは決めているのだから、その通りにするしかないのだ。 「今までで三十以上は打ち込んでみたけど、あとどれくらいだ?」 「事前に決めた内ではあと十五程度だろうね。ゲン君も同じくらいにやられていたんだろう、斜理さんに」 「まあな。行動を封じるものが大半だったけれど、あの内に精神的な拘束を織り込んでいたのはびっくりしたな」  あの中で強引に動き続ける原理の精神力も物凄いものだったが、その所為で何かが原理の中で変質したことを考えれば、結果的にはそういう流れでしかなかったと彼は納得している。  原理は左脚を軸に回転して、シノニムに向かって右脚を薙ぐように振り上げた。  蒼く輝く衝撃波が前方の広範囲に飛んでいくけれど、彼女はこれを自らの霊力で弾き飛ばして打ち消した。  直接拳を打ち込めば気絶させられることくらいは知っていたけれど、シノニムもそれを解っているのか、一定以上の距離には近づけなくしている。自身の脆さを自覚しているのは正しいことだったけれど、今はそれがこちら側のネックになっていた。  甲板を切り裂いて、風の刃が飛んでくる。攻撃モーションが大きくなっているけれど、それは精神的な問題だったと思う。  全力で殺意を乗せた攻撃ならば、そこまで大振りにする必要が無いことは、原理たちが覗いた記憶の中で理解していた。 「ならば、なぜ」  シノニムは本気で原理たちを殺そうとはしていないのだろうか?  そうであれば、こうして戦闘行為に及ぶ必要は全くないはずなのだけれど。 『ふむ、おそらくだが、彼女は君たちに殺されたがっているのでは?』 「え」  予想外というほどでもなかったけれど、原理が思考から半ば無理に追いやっていたその理由は。  シノニムが死にたがりだとは思えなかったけれど、そもそも彼女は周囲の環境に敏感だったと思える部分がある、と杏樹が通信に割り込んできた。 「そうなのか?」 「ええ、シノはいつでも周りの目を気にして行動しているようでもあるわ。忌方君は知らないだろうけれど、あの子、自分が日本に属していないことにひどく疎外感を覚えているようだったの」  自分というものが確定していない状況。戻っていなかった自分の記憶。  その空虚がシノニムを不安定にさせていたのだろう。 「正直、あの子が心底から笑っていたのを見たことはないのよ。頼られはすれども、どこまでも隔たっていたのかもしれないわ」  でも、原理はそれに賛同できなかった。  あの時。原理が斜理に攻撃を受けて、五日間の昏睡から覚めた瞬間に見せていた、あの表情が。  人を信じていない空虚なものだったとはどうしても思えなかった。  不安の混ざって、それでも人を思いやれる感情をかたどった笑顔。あれが、本心でなかったなんて信じることはできない。原理は少なくとも、あの感情を本物だと確信していた。 「別にそれでもいいけど、さ」 「君も頑なねえ……。あまり見ない感じよ? 最近の君は」 「何を呆れてるんだよ。そこまでおかしいか、俺は?」  さあねえ、と韜晦したような返答が耳に響く。そんなことで気分を悪くするような原理でもないけれど、少し妙な感覚が心臓の奥に揺れたのを見逃しはしなかった。  甲板には無数の傷が刻まれてはいるものの、そこを貫通するようなものはなく。異能「風」では軍艦一つを破壊するまでには至らないのが普通のことだった。 「せあっ!」  右腕を撃つ。鋭さが下がっているが、破壊力は反比例して上昇していた。  広範囲に広がる衝撃を殺しきることはできず、シノニムは下がりながら回避。すでに十三回はそのやり取りを繰り返していた。 「は、ははは」  シノニムが笑う。掠れて乾いた、気のない笑いだった。  そのまま彼女は右腕を前方に向ける。真正面に立って走っている原理に対して、高密度の空気の渦を撃ち出してきた。  時速にして二百キロは超えていただろうその攻撃も、原理の動体視力はある程度確実に見抜いている。同時に視界に表示される霊力の流れは、後方まで突き抜ける危険性を表していた。  渦風衝。  清籠も扱う空気の射撃技。シノニムはそれを教わることなく使いこなしている。 「いや、ウィンガードの家で教わっていたのか」  記憶を辿れば、そんなこともあった気がする。覗き見た記憶でそんなことを考えるのは、不躾な気もしたけれど。  左に体重を移動して躱そうとして、肩を風がかすめた。風が刃になって服を切り裂き、その下から血が弾ける。  そんな痛みには怯むこともなく、原理は前進し続ける。  ぎり、と視線に力が籠もり、その色が強く輝く。 「ぜいやああああああああっ!」  振り上げた右脚から蒼い霊力を放出する。ばきりごきりと甲板を凹ませながらシノニムの視界を覆い尽くす光が、彼女をわずかに怯ませたのを知覚していた。 「殺意が一瞬だけ弱まったな。感覚でしかわからないけど」 『いや、こちらも霊力波動の揺らぎを検知しているよ。そのレベルの攻撃ならば、意識を逸らすことはできるようだな』 「このレベルねえ。言ってもこれ、割と全力なんだけど」  いくら身体能力に優れる原理でも、全力で動き続けて数十分を持たせられるほど化け物じみた持久力は持ち合わせていないし、それ以前に霊力があっさりと尽きてしまうだろう。  そんなことでは作戦は実行できないし、シノニムを連れ戻すという目的は果たせなくなる。  と、光の残滓が舞う中をシノニムが真正面から突っ込んできた。 「な、」  言う間もなく、シノニムの右手が原理の腹部、ちょうど鳩尾の辺りに押し付けられ。腕に渦巻くライムグリーンの風が重い塊になって衝撃を撃ち抜く。  ごおおおんっ!  と、全身に硬い衝撃が走り抜け、意識が三瞬だけ遠のく。 「が、あっ……」  シノニムはそれを確認すると再び距離を取っていく。ヒットアンドアウェイは人間が異形種に対して行う作戦ではあるけれど、それを実際にされてみると、かなり厄介だと知れる。  これがあの時、空が受けた攻撃なのかな。そこまで思考して、ぐらつく脚に活を入れ直す。 「がふっ、がはっ……ごほっ!」 「忌方君⁉ 生きてるの?」  杏樹が珍しく焦ったように問いかけてくる。その声音に支えられ、感覚を修正していた。 「……な、なんとかな。だが」 「いや、原理のその頑丈さは凄いよ。やっぱさ」  割り込んできた空の声が驚愕しているようだったけれど、それを気にする余裕は彼には残っていない。 「カウンターで催眠のコードを打ち込んでみたけど、どうなんだろう。気取られてるか、判るか?」 「うん? 動き自体に変化はないけれど、気付いていても気にしていないかもしれないわね」  そうか、と返した。そうなれば、催眠を甘んじて受け入れるつもりなのかもしれない、考えるだけ無意味なことでも、テンションを保つにはそうするしかないのだ。  口から漏れ出す血を拭って、全力で前進する。すでに艦の先端部分まで来ているので、これ以上は下がれないはずだが、シノニムはどうする気なのか。  していると、彼女は脚に纏う風を散らして、その場に立ち止まった。  息を切らして、それでも揺らがない紅い眼で原理を睨んでいるように見つめる。 「シノ……」  近づこうとすると、風で押し返される。近づくなという意志だった。  よく見れば、全身を震わせて、何かに耐えているように見える。ギリギリのところで、自我を保っている存在が、これ以上何をするというのか。  恐ろしいくらいだが、それでも放ってはおけない。  紅い光は心臓の鼓動と同調して脈打っている。抑えきれないのは、衝動そのものなのか。 「………………っ、」  シノニムは原理に何かを言おうとして、無理矢理にその言葉を噛み潰した。言いたいことがあるなら、そのまま言えばいいのに、そう思うけれど。  それでも言えない言葉なら、あとでいくらでも聞いてやろうと思うのに。 「……………………」  原理は何も言わなかった。  二人とも、本当に言うべき言葉を、ここで口にするのは厭だったからだ。どちらにしても、原理は準備が整っていないし、シノニムは最後まで口にしないと決めている。  それぞれが想定するシチュエーションは違うけれど。 「………………ああああっ!」  シノニムが右手を振り上げる。そこにありったけの殺意を乗せて振り下ろした。  瞬間、原理の右側の音が消える。 「――――――――――――――――、あ」  刹那ののち、鋼鉄を叩き割る落雷のような大音声が響き渡り、艦の全体を微細に揺らす。  地震というものを体感したことのない人々にとっては、何事かと思うだろう。  意識を戻した原理は、目の前にシノニムが居ないことに気付く。慌てて振り返ると、その光景に絶句し、愕然とするしかなかった。  後方五十メートルにわたって甲板が完全に裂かれて、その断面が下の階層の天井を突き破っているのを見たのだ。  先端部分には人は配置されておらず、人的には被害はないものの、それでもこの威力をたった一人の人間が出せるものなのかと疑ってしまうのは当然のことだった。  敵わない。絶対に勝てないという絶望感が、今更原理の心に湧き上がる。 「いよいよマズいことになったね。生きてるかい、ゲン君」  そんな尸遠の声もどこか曖昧に聞こえるようだった。 「生きてる。だけど、これは」 「うん。シノちゃん、本気を出し始めているね。もう制御も利かなくなっているように見えているけれど、どうだろうね?」 「自棄になっているように見えるよ。痺れを切らしたってとこだろ」  最早即死ゲーじゃねえか、と原理は珍しく慄いた様子だった。この修繕とかどうするんだろうなあとかぼやきながら、シノニムの姿を探す。  コンタクトレンズの表示は視界に捉えないと映らないので、結局気配で探す他ないのだったが。 「いや、気配が巨大すぎて位置を把握できないぞ」 「そうだねー。司令室も見失ってるってさ」  暢気そうに空が言うけれど、原理は不安しかない。 「見失うって、それ」 「落ちたりはしてないと思うよ? 気配が消えていないなら、その場所が下方からになるはずだもの」 『ゲン、早く戻って。そこにはもう行かないはずだから』  通信で亜友が指示を出してきた。コンタクトレンズに映る情報から、いつの間にか情報処理室に移動しているようだった。まあ、亜友は仕事を終えている上に手負いなので、いつまでもデッキに居る意味はないけれど。  言われるままに移動する。ダッシュしながらブリッジ方向に視線を向けると、シノニムが砲塔の上で項垂れているのを見つける。 「そんなところに、いつの間に」 『こっちのソナーでも動きが捉えられなかったよ。まさか検知周波の隙間を抜けてくるなんて思わなかった』  それこそが殺人鬼の本領なのかも、と亜友は言うけれど。  原理には、シノニムは無理矢理なことをしているようにしか見えていない。  自分から限界を超えて、何もかもを諦めているような。  だから、自棄になっていると思ったのだろうか。
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