五「蒼空を断つ二人」

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……  ぼんやりと、しかし確かな足取りでこちらに向かってくるシノニムに、尸遠と由梨菜は敵対することはなく。  殺意を向けているのにも関わらずに、彼らは楽しそうにしているだけだった。  二人の魔術師は、異能者や呪術師とは違って。力比べをすることを好んではおらず。  基本的に後方支援の二人がシノニムと戦って勝てるわけもないのは解っていることだった。 「でもね、君が僕らを殺めるというのなら、全力で相手をするよ」  どうしたい? と尸遠は首を傾げる。油断しきったその立ち姿は、シノニムの紅い殺意に火をつけようとしたわけでもないだろう。  彼がシノニムと同じように考えるわけもない。 「…………何を考えているの?」 「別に何も? 僕は、君とは戦いたくないだけ。そんなことをしても意味がないし、何より殺しでもしたらゲン君に怒られるからね」 「それは、ゲンリくんが」 「んー。何か言いたいことがあるみたいだよ。僕は知らないけど」 「言いたいこと?」  彼女にはよく解らない。今更詰問されるのなら、それは仕方のないことかもしれないけど、この状況で原理がそれをするとは考えにくい。どうしたところで、原理がシノニムに敵意を向けてくることはないのだから。  それがどうしてなのかは解らない。もしかしたら自分と同じ理由なのかもしれないと考えるけれど、そんな都合のいい話なんてない。  自分の勝手な考えが、そう思わせているだけだと甘えた考えを打ち消すようにかぶりを振った。それだけで、なぜか原理に対する殺意が戻ってくる。  戻ってきただけで、さっきまでのように心は全く震えない。  沈みもしない、震えもしない。  だったら、シノニムの心はどこへ行くというのだろう。どうせなら、果てしない虚無に沈んでしまいたいところなのに。あの時の自分はそう思っていたはずなのに。  ここではそんなことを思えない。  どうしてだろう。  世界を終わらせてまで、何を欲しがるのか。  それとも、終焉を超えた先が、求めていた世界だったのか。  どくん、とシノニムの心臓が強く拍動する。その中にくすぐったいような疼きが混じっていて、それが何なのかを探るのは、難しいと感じていた。  原理は、シノニムの揺らがない姿に感心するしかなかった。  びしびしと殺意を向けてくる彼女に、原理も自分の気魄で応じる。  互いに、その気力は全く弱まってはおらず、原理は自分が全力を出しきるしかないと薄々感じていた。  そして、そうでなければ。  本当の意味での彼女の本心を知ることはできない。  何もかも壊して、失って、蘇って、そして思い出して。それらの全てを排除してシノニムの奥底に眠る感情は、何だろうと思うのだ。  知りたい。  原理がここまで純粋に人に興味を抱くことは、あまりなかったのだけれど。 「はっ」  息を吐いて、哀しそうに自分を見るシノニムを、しっかりと見据える。  苦しさが、肺に来ているのが判るけれど、それが何に起因しているのか、判別できない。 「それでも、やるべきことは決まってる」  頬を張って、意識を尖らせるのと。シノニムが原理に向かって走り出したのはほぼ同時だった。 「ずあっ!」  原理は全身に力を籠めて、四肢と腹部に蒼い光を纏う。真体凶化の常時発動は霊力消費が激しいのだけれど、今更そんなことを考えても意味はない。  初めから、ここで全部使い果たす気なのだから。  原理は霊力を弾けさせて、全力で前進する。前方向から伝う濃厚な殺意を受け止めて、それでも萎縮なんてしてやらない。そう決意しつつ右腕を振りかぶる。  同時に向かってきたシノニムが、同様に右腕を原理に向けて突き出してきた。その腕の周りには圧縮されたライムグリーンの風が渦巻いている。  破裂音。二つの霊力と衝撃がぶつかり合い、勢いが止まる。鍔迫り合いの状態で、二人はぎりぎりと互いの腕を押し付け合う。 「シノ。まだ、俺を殺したいか?」 「……わからないよ。でも、身体が動いちゃうんだ」 「そうか。じゃあ、やってみな。限界まで付き合うからさ」  正直、これには原理の「忌方」としての意地というものが含まれていた。鵬での最上位異能を持つ自分が、覚醒者相手にどれだけ戦えるか、一度解っていても。  死にはしないのなら、いくらでもリベンジできる。  シノニムのような本質的に惰弱な少女にそう思うことは、基本的にはないのだけれど。  彼女がそれを求めているのなら、応えないわけにはいかなかった。 「本当に、変わらないんだね」  シノニムは、哀しそうに笑った。その奥で脈打つ紅い眼が、濃度を増しているのに気付かない。殺意が微塵も衰えていないのは、彼女が超越者だからなのか。  同時にバックダッシュして、大きく距離を取る。原理の仕事はシノニムを殺すことではなく、彼女を戦闘不能にすること、そして術式の有効な場所に誘導することだった。  仕込み自体は既に済ませているし、いつでも発動可能ではあるけれど、しかし今のシノニムの状態では無効化されてしまう可能性の方が大きい。以前自分が催眠を受けた中でもかろうじて動けていたことを考えても、排除できない確率だった。 「シッ!」  右腕を一瞬だけ撃ち出す。その拳の先から音速で飛んでいく衝撃波が届くと同時に、シノニムはそれを霊力を含んだ風で弾いていた。  返す刀で右腕が閃き、刹那の斬撃が飛んでくる。甲板を切り裂きながら迫るそれを受けるわけにはいかず、原理は大きく右にステップしてやり過ごそうとするけれど。  次の攻撃がすでに迫っているのを見て、遠距離での攻撃は無為だと判断した。  そもそもが近距離格闘専門の原理のこと、遠距離でちまちまとダメージを重ねるのは戦闘スタイルから見ても非効率的なのだから、彼には前へ出るしか選択肢は実質的に無いのだった。  原理は大きく前進する。一歩のステップで五メートルは軽く詰めていき、シノニムの居る場所までは五秒とかからないでたどり着けるだろう。  しかし、それを黙って見ているほどシノニムも呆けてはいない。  脚に風を纏わせ、滑る動きで後退していく。あくまで原理との距離を保つのが目的なので、一定以上の距離には近寄りも遠ざかりもしない。  衝動的な行動であれば、普通は迷わず飛び込んできそうなものだが、シノニムはそれをしない。原理は、それが迷いであると見抜いていた。  自分自身を嫌う彼女が、どのようにこの戦いに終止符を打つのかを、考えているのだろう。そうでなくとも、原理が望む終え方を知らないままで、それでも薄らと勘づいているのだろうと、なんとなく思う。 「死ななきゃいけない人間なんて、居ないのにさ」  呟く言葉は、彼女には届かない。でも、他の全員はそれを肯定するだろう。死んでいった人は、単に役目を終えただけのことだと、清籠は言っていた。  生きている人間ができることを、先人たちはできなかっただけだと悦也は言った。  進化していく過程のままで、繋いでいるだけだと義理は言った。  そして、その先人たちの言うことが、本当かどうかを考える機会はいくらでもあった。  考えて、考えて。考えた末に、そう思っていたのだけれど。 「生きたいから。生きているから。死にたくないから、死ぬべきでないから。どれでも正しいさ。でもさ、シノはそれを反転させてしまっているんだろう」  殺人鬼集団。  魔女狩りの一族。  人を殺すことが当たり前になっているからこそ、死ぬべき人間が居る、という結論に達している。それは間違ってはいないけれど。  それでも、それを拒絶したのはシノニム自身の意志だったはずだ。  視線を上げる。大きく旋回しながら距離を取り続けるシノニムと目が合った。その紅い双眸には、沼のような濁りが見える。  思考の泥濘に捉われ、自身の結論を導き出せていない。 『俺は、あいつにもう一度問うてみたい。処遇はその時に決めてもいいだろう?』  前日に作戦室で、悦也に向かっていった言葉が、原理の覚悟を表しているようで。悦也もそれに対して反対はしなかった。 『忌方副隊長が彼女の責任を負っているのならば、思うとおりにすればいい。だが、一つ疑問があるがね』 『なんです?』 『君は彼女が意に添わぬ回答をしたときに、本当に――――』  思考を振り払うように原理は左脚を振り回す。そのまま甲板に叩きつけて、衝撃をシノニムに向けて走らせるが。 「ああああああああああ!」  彼女はそれを、殺意の解放による打撃で簡単に相殺してみせた。  暴走しているのかどうかが判別できないけれど、衝動的な行動を制御しきれているわけでもないらしい。  これで完全に暴走していたなら、一瞬の間もなく原理を含めて全員が殺されているだけなのだけれど。それでも完全に扱いきれていないのならば、やはり準備しておいて正解だったのだろう。 「くっ」  風圧で吹き飛ばされ、何とか姿勢を崩さずに止まってみせた原理の身体感覚も驚異的ではあるが、しかし異変はそんなことでは隠れない。  視線を向けた先、シノニムが肩で息をしているのだが。  その背中に、いつの間にかライムグリーンの翼が戻り始めている。  今まで緑光風羽を封じていた呪術の効果が切れ始めている。抑え込みが甘かったというよりは、そもそも覚醒能力をただの呪術で封じることに無理があったのだろう。 「くそ、ここにきて」  シノニムの周囲に、再度強風が吹き荒れる。存在するだけで厄介なストームが、この時点で意味を成すとは思えなかったけれど。 「ゲン君、これ以上張り合うと君の方が先に消耗すると思うけれど」  イヤホンから入る尸遠の声に、不安が混じっていた。 「忌方君、これ以上意地を張るのはやめておいた方が」  杏樹も平静な声で忠告していた。 「だったら、どうするんだ? 他に取れる手があるんなら、それでもいいけれど」  そもそも、作戦なんて暴走した覚醒者に対して取れるようなものがあるわけがないのだ。殺人鬼が相手ならば尚更で、下手に人員を投入できない理由なんて二人とも知っているはずだった。 「悪いけど、俺は諦めが悪いからな。最後まで足掻くだけなんだ」  言いながら、原理は首に掛かっているリングに手を掛ける。そこには封印の呪具が二つ繋がっている。それを外すことに一瞬不安を覚えたけれど、構うものかとそのリングを強引に引き千切った。 「忌方君⁉」  杏樹が珍しく驚いたようだった。しかし、原理にはもう、そんな声も届かない。  彼の全身を薄く、蒼い光が包んだ。普段の発動トリガーを満たして顕現する霊力ではなく、自然と立ち昇るオーラに似た気魄そのものだ。  シノニムの緑光風羽に対抗するには、全ての封印を解除するしかない。ここで全力を出せなければ、原理自身に価値も存在意義もなくなってしまうだろう。  刺し違える覚悟はなく。二人とも生きて解決することが信条の原理が、それでも決死の覚悟を決めることは稀だった。
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