合理主義者の気まぐれ

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合理主義者の気まぐれ

 子どもの成長を見ていると目が醒めるような驚きを感じることが何度もある。  泣くことしかできなかった赤ん坊が、ミルクを卒業して離乳食を食べるようになり、一言や二言、言葉らしいものを発するようになる。そしてハイハイで動きまわるようになったかと思うと、ある時を境に二本足で立ち上がって歩き出すようになる。  何も教えていないのにである。驚きだった。  子育ては面倒だとか苦痛だという。確かにそれはその通りだった。  人のために使う時間は勿体ない。自分にはやりたいことがある。子育てに時間を割くくらいなら有用なアルゴリズムの研究をしていた方がまだ良い。娘を授かるまではそんなふうに考えていた。  現代社会は効率重視だ。非効率なものは排除される傾向にある。  娯楽はそこら中に溢れており、お金さえ出せばいくらでも感授することのできる。そういう環境というのは本当に幸せな世の中であると思う。よって皆が皆、どうやってお金を効率よく稼ごうか考えている。  この国の政治は最低だ。それぞれが自分たちの権限を拡大させ、利権を増やすことばかりに貴重な時間と労力と税金を使っている。  法案が上がっても、それの問題点を判断しようとするのではなく、どうやってそれを通そうか、どうやってそれを阻止するかの二択にそれぞれの勢力が終始している。  この部分は良いから残し、この部分は問題があるので修正する。通常なら当たり前のように行われるはずのプロセスが行われない。建設的な議論などゼロである。それもそのはずである。誰も法案の中身なんて理解していないのだから。  マスコミに到ってもそれは同じである。時間やお金をかけて取材をせず、出された法案の分析や研究をせずに、それを専門家に丸投げする。視聴者に寄り添った考えの提示など考慮しない。気にしているのは視聴率であり購読数であったりする。  こうしてまた税金は上がる。  民衆から集められたお金を何処にどのように分配するか。それこそが彼らの権限の強化であり仕事であるからだ。それが社会全体を疲弊させる要因になっていると分かっていながら。  こんな時代に子どもを産むのは可哀想だとも思った。誰もが自分のことしか考えようとしない時代。ベビーカーを押して歩く母親に配慮もなければ、抱いている赤ちゃんを可愛いとも思えない人々。そんな不利な立場に立たされるなんてまっぴらごめんである。だからこそ子どもなんて本当に不要だと思っていた。
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