昭和二〇年三月

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 一歩外に出ると、町は静かな狂乱に満ちていた。  空襲警報が鳴っていない。悲鳴のひとつも聞こえなかった。戦闘機の音が大きすぎるせいか、あるいはついさっきまで寝ていたお陰で現実味がないのか。風呂敷包みや赤ん坊などを抱え、誰もがサーッと一方向に駆け抜けていく。  律とふきを背負った親父が先頭に立ち、お袋が必死でついていく。俺はその腰を押すように後ろを走っていたが、誰か助けてくれ! という声を拾って振り返った。岸の爺さんの声だ。 「おい親父! 岸の……」  妹達をお袋の足元に下ろし、親父が猛然と引き返して来た。  すぐそこの角を曲がると、岸一家が立ち止まっていた。  道の端に、脂汗を流してうずくまる手足ひょろひょろがいた。眼鏡にヒビが入っている。背中には婆さんを背負っているが、一歩も動けそうにない。  岸の女房と爺さんが青褪めて立ちすくんでいる。その両人をひっ掴み、うちのお袋と妹達の方へ投げるように押しやりながら、行け、先に行けと親父は叫んだ。  あああ、足を(くじ)いた。すみません、こんな時に、すみません……!  いいから、岸さん。もっと寄りかかれ。いや、負ぶさったほうが早い。負ぶされ。  母さんが……母さんが。  大丈夫だ、心配すんな。そら、せぇの。  親父に担がれて岸の体が浮き上がる。
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