昭和一九年七月

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「……?」  強い違和感があった。俺と妹の話をしていたはずなのに、なんでそこで戦争の話が出てくるのか。なんでこれとそれとを同じ話みたいに言うのだろうか。  そう思ったが、俺はちょうど口内に親指と人差し指を深々と突っ込んでいるところだったので、何も喋れなかった。右下奥でぐらついていたはずの歯がどこにも無くなっている(後々気づいたことだが、それが最後に抜けた乳歯だった。俺の幼少期の歯というものは、ほとんどこうして親父の鉄拳によって喪失していったように思う)。  口の中を血の味のする隙間風が吹いているようで不快だった。歯茎の空洞に舌を添えて吸い、滲んだものを唾液ごと飲み込んだ。  親父はまだ何か言っているようだった。妹達は泣くのをやめたようだ。俺は横を向いているのに飽きて、大の字の仰向けになった。  陽が沈みかけて空が(だいだい)色だった。丸い太陽を見ていると、久しぶりに煎餅(せんべい)が食いたいなと思った。  ひゅうと動いたものに目を投げる。真っ黒な(からす)が一羽だけ、南の方から飛んでくる。  かと思うと、そいつはなぜか旋回し、音もなく高度を下げ、瞬きの後には軒先に降り立っていた。黒い羽を綺麗に畳み、ちょうど親父の頭の真上から俺を見下ろす形だ。  視線がかち合った。烏は首を傾けた。少しの間、互いにしげしげと観察し合ったあと、俺のほうが先にくすぐったくなって吹き出した。 「だははははは」  親父は激昂した。  (かい)! てめえ、何がおかしい。そんなに寝心地がいいんなら、もういい、今晩はそのままそこで寝てやがれ!
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