昭和二〇年三月

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 ふと気づく。前を歩いていたはずの親父がいなくなっていた。岸の婆さんと目を合わさないよう、体ごと(かえり)みて確認した。  親父はそう遠くないところにいた。が、完全に足が止まっている。木の根を見つめて押し黙っている。  呼ぼうとした時、その背後の景色が目に入った。尖った炎が赤々と揺れているのは、どうも俺達の家の方に見えた。  あっちもそれに気づいているのかはわからなかった。親父はやおら顔を上げ、訊いた。魁。お前、母ちゃん達を見たか。 「は? 見てねぇよ。だって」  中途半端に開いたまま、不意に俺の口は動かなくなった。もうとっくに生え揃っているはずの奥歯を、血の味のする隙間風が撫でていったような気がした。  そうだ。見てねぇ。。  だって、向こうは小さい妹ふたりを連れていたのだ。抱えて走ったかもしれないが、細腕のお袋に岸の女房、それに爺さんがひとりだ。  先に行かせたとはいえ、たいした時間差じゃなかった。俺と親父で人ひとりずつ背負っていたとはいえ、それでもこっちのほうが足は速いはずだ。途中で追いつかなかったのはどうしてだ。  ……違う道を行ったのかもしれません。負われている身で申し訳ないが、蜂矢(はちや)さん、とにかく今は防空壕へ行ってみましょう。  親父の背で、真っ青になった手足ひょろひょろがそう言った。親父は浅く頷いて歩き出した。
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