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零戦
家に帰る途中、岸の婆さんとすれ違った。
互いに挨拶はなしだ。婆さんは杖をつきつき、深く俯きながら去って行った。
岸とは親父の工場仲間で、ごく近所に住んでいる男だ。眼鏡をかけていて、手足がひょろひょろと細長い。
お袋が働きに出るようになってから、親父は岸に、お前の母親を日中借してくれと頼み込んだ。律とふきの面倒を見させるためだ。
岸には子供がいなかったし、足の痛む婆さんは毎日暇だった。ついでに岸の女房も息抜きできていいじゃないかと、二つ返事で引き受けたようだ。
婆さんはいつも俺が学校へ行く時分に現れ、帰る頃に立ち去った。また、この日のように実際すれ違うのは稀なことで、通常はほとんど顔を合わせることもなかった。
婆さんがそうするようになったきっかけは、あいつが最初に妹達の世話をした日だったと思う。
学校の終わる時間がわからなかったのだろう。戸が開けっぱなしだったので、俺が部屋に入ってきたことにも気づかなかったようだ。人形やお手玉の散乱する縁側で、婆さんは妹達に滔々と語って聞かせていた。
私はね、お前達のことは好きだけど、お前達の兄さんだけは大嫌いだよ。あの氷みたいに冷たい目が本当に恐ろしい。
あれはね、いつか必ず人殺しをやる目だよ。
名前に鬼の字なんか入っているからいけないんだ。この香澄の地でそんな名前つけるなんて、これだから余所者はだめなんだ。カイと読ませる字なら他にいくらでもあるってのに、なんでお前達の両親はわざわざ魁なんて字に決めたんだろうね……。
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