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第三章
溶けるような目をして、今度は彼女の方からキスをした。かなりディープで、今回ばかりはいい意味で神経をやられそうになった。さらに深くイチャつこうとした時、鉄の扉が開く音がして、スタッフの女性が出て来た。キスの最中、青年はその女性と思い切り目が合ってしまったので、「場所を変えよう」と彼女に言うと、気の利く彼女は直ぐに車を出し、そのままムーディーに会話は無く、あっという間に彼女の家の近くのコンビニへ着いた。外に出て手を繋ぐ。彼女は嬉しそうにかごをを持ってどれにする?どれにする?と缶の酒をかなり選んで、「全部私が買ってあげるから、一緒に飲もうね」と言って会計を済ませた。「持つよ」とだけ言って青年は、それ以外の仕事をしたくなかった。ピンクと白に重点を置いた、いかにも女の子らしい彼女の部屋に入る。と言っても彼女の方が幾らか年上だし、女の子と言っていいのかも分からない歳だ。掃除の行き届いた清潔な部屋で、メンヘラチックなコントラストに関わらずキャラクター物やぬいぐるみなどは一切無い、過ごしやすい1人にしては広めの部屋だ。中心の楕円形の低い机の周りに隣同士座って酒を開ける。彼女は青年に酒を勧めて次々と缶を開けた。
「煙草吸いたくない?ほんとはいけないんだけどね」と言って、全く使われていない灰皿を青年の目の前に置いた。青年は「おいで」と言って彼女を抱き寄せた。ギュッとしてみると、かなりムチムチで気持ちいい。Fカップは下らない胸を触っても、彼女はほんのり頬を赤らめるだけで、それが興奮によるものか、酔いかは分からない。なので俯き加減な顔を掬い上げるようにキスをすると、「もう我慢できない」と、最初は豚だった女は美しい猛獣と化し青年の上に馬乗りになるという動物園みたいな事態になって、貪る様に青年の性器を取り出し、喰らいついた。部屋が少し寒かったので、まだ革ジャンも脱いでなかった青年は焦ったが、普段苦手な缶のお酒を飲んだこともあって、かなり酔いが回っていて、猛獣の猛攻を阻止する術はなかった。奈央という女は、器量のわりに、いや、だからと言うべきか、夜は素晴らしく得意なのだ。青年が弱気な声を出していると、「慎吾、イッていいよ」と言われ、青年は迷わず口に出してしまった。女は喜んで、魂を吸う妖怪みたいにそれを飲み干すと、青年の口にべちゃべちゃとキスを始めた。青年は魔法の杖を持つ賢者となり、渓谷を彷徨っていたにも関わらず、ダイイングメッセージを残した。
「今日はしないの?奈央、いつも挿れたがるじゃん」
完全に目が覚醒して起きたのは15時半辺りで、ベッドの上に猪が横たわっていた。ミイラを作っている最中だったのか、バスタオルでグルグル巻きにされたベッドはかなり血走っていて、この猛獣を、青年は殺してしまったのかと思った。それにしてはスヤスヤと安らかにその豊満な肉体を保ちながら萎んだり膨らんだりしているようで、試しにFカップを揉んだり舐めたりしてみた。すると左の乳房を噛んだ辺りから、女はブピーフーブピーフーと、子供用の立体トランポリンに穴が空いたような音がし始めた。時間的にはかなり経っているのに、熟睡感のないこの感じは、そのせいかもしれない。同時に金玉が空になっている感覚もあったので、何が原因で今この現場にいるかは鑑識に任せよう。
「奈央、起きて」その指令を待ち望んでいたかのように、奇妙な音は止んで、思いの外ケロッと起き上がった。
「慎吾、昨日はごめんね。私、無理にやっちゃったの。久々でね、我慢できなかったの」甘えるように泣きそうなように言う女を、青年はいとも簡単に抱き締めた。
「俺の方こそごめん。あんまり全部は覚えてないんだけど、幸せだったよ。身体は大丈夫?」
「生理がまだ終わってなくてね。でも心配しないで。バスタオル敷いたのも私だから。ほんと無理矢理してごめん」
「謝らないで。また会いに来るから。いつでも。ねぇ、今日はこのままバイトに行くから。いいかな?また送ってくれる?」
「勿論いいよ。何か食べる物作ってあげるね」
奈央は慎吾のバイト用のTシャツを洗濯し乾燥させ、アイロンを掛けた。オムレツを作り2人で食べた後、バスタオルの上でまたセックスをして、時間を過ごした。そして奈央にキャラクターの絵柄の腕時計を貸して貰って、慎吾はバイト用に着替えた。その後、まるでいつも通りの様にバイト先まで送って貰った。
「奈央、このまま一緒に暮らさない?」
奈央は笑って、「行ってらっしゃい」とドアを閉めた。
キャラクターの絵柄の時計を見ると、〈19:10〉だった。まだまだ時間はある。いつも通り鉄の扉を過ぎ、煙草を吸った。今日はなんだか気分がいい。昨日の太った月を探す。見当たらない。曇っているのかも知れない。確かに月があった位置が妙に曇っているというか、薄ら何かの形である風に、雲が形作られているような気がする。青年に畏れを為している気配。
早めに鉄の扉を開ける。今日は気分が軽い。金玉が空っぽであるからだろう。案の定誰もない。1人控え室に向かい、電気をつけ扉を開ける。いつもと変わらぬ順序で準備を整える。シャツからは奈央の香りが仄かにして、臙脂色のエプロンはいつもよりも濃い赤に思えた。〈19:25〉を持ち前の腕時計で確認して、タイムカードを切りに事務室へ向かった。
「それで須野くん、言っても言っても地べた這いずり回ってガムを取るんですよ~。ほら、変わってるじゃないですか~。あのお好み焼きみたいなヘラでずっとやるんです。私が止めなさいって言ってるのに。それで昨日なんか、自分で小指傷つけてたんですよ。気持ち悪いでしょ~自傷行為なんて」
青年は引き返して、今日のシフトを見た。12月27日(日)。自分の名前との交点に今日のレジシフトは書かれてない。焦ったようにエプロンを脱いでトイレに入り、猛烈に顔を洗った。「何してんだよ。死んだ方がいいよ。俺なんて」涙が出て来た。すると鏡の中の、同じ顔をした青年が言った。「死んだ方がいいのはお前じゃないよ。頭の中の声はお前に対してじゃないんだ。お前を苦しめる、この無知と憎悪に溢れた社会だ。いいか、勘違いするな。『死んだ方がいい』というのは、外に対してのことなんだ。お前のことじゃない」
皺くちゃな顔で泣き笑っていた。そのまま便器へ向かい大便をし、吐き散らした。その後ラバーカップで押しつけて何度も押しつけて、糞尿と吐瀉物だけを流した。
右手にはラバーカップ、左手には臙脂色のエプロンを持って事務室に向かう。
「失礼します」
生憎今は、主任しか居なかった。神様ありがとう。お月様ありがとう。ハッと驚く主任の憎たらしい顔目掛けてラバーカップを振り下ろした。絶叫か歓喜か分からぬ阿鼻叫喚で、どうやら汚物の何かが目に入ったらしく、とっさにどこかに走ろうとしたので、足を引っ掛けて転がした。仰向けになって虫みたいに左右に揺れているブリブリの上に馬乗りになって、自分の手は汚さないように社名ロゴが付いた臙脂色のエプロンを左手に巻き付けて殴りまくった。余りにも五月蠅いので、エプロンを噛み込ませてしまおうとした瞬間、唯一の金具部分が歯に当たったようで、前歯が片方折れていた。一石二鳥。
「主任、過去はどうあれ男に限って辛く当たる女は嫌われますよ。気色悪い。貴方は下水がお似合いです。蟯虫みたいでとても可愛いですよ」
それだけ言うと、昨夜よりも絶頂する気分で、煙草を吸いながら外に出た。主任は嗚咽しながら泣いていた。タクシーを拾って少し遠いが、自宅へ帰ることにした。奈央の財布から2万円ほど拝借してきたので、お金には余裕がある。
「お客さん、この間は災難でしたね」
内心赤く梅干しのようになっていた麩老人だ。
「いえいえ、あの時はご迷惑お掛けしました。この間のコンビニまでお願いします、サー」
「あまり飲み過ぎるのも良くないですよ。まだお若いんでしょう?」
「余計なお世話です、サー」
「まあまあ、最近の若いのと来たら」
「降ろしてください。腐った腐老人が。一々ぼやかないと運転もできないのかな。軟弱ですな。単細胞ですな。最近の老いたのと来たら。さっさと死んじまえば良いものを、サー」
ほとんど走行中のような形で無理矢理降りた青年は、近くの駅から電車で帰ることにした。
最寄りのコンビニまで付くと月が異常に光っているのを背後で感じた。振り向くと、そこには月ではなく、濃すぎるほどのマルチ・ヘヴンがあった。前と同じルートで家路に着く。
家に着くと、怒鳴り声がした。
「あんたが甘やかすから、一日中帰って来んような阿呆になったんやろ。あんたが遠くの大学なんか行かすから、酒と煙草と女を覚えて帰って来て、今でもあんなにだらしないんやろ。あんたが甘やかすから。あれはな、教育の失敗や言うてるんや」
引き戸を開けると、バシバシと母親の顔を洗濯物で叩いていた祖母の手が一瞬止まった。そして汚い疣だらけの顔面をこちらに向けて、そう言う妖怪のように飛び掛かってきて――端から見たら戦争から帰って来たパパに抱きつく娘のようにも見えたかも知れない――熱烈に顔を殴られ、洗濯物で叩かれ、「あんた心配したがな!」と喚き散らしながら、本当に心配になるほど青年を引っ掻き殴り続けた。唯一の良心である母は「ねぇ、止めてよ。お母さん止めてよ」と泣きながら祖母を止めようとしているが、自分は愛情深く、信心深いと思っている祖母は止まらず、孫を痛めつけ続けた。頬がぷつんっと切れたところで、青年はゆっくりと2階へ向かおうとした。すると祖母が食器棚から食器を出そうとして、何皿も何皿も取り出そうとしたので、青年は「ゴハン・イラン」と言った。そうするとまた発狂した祖母は「あんたは私の作った物食べなあかんのや!あんたは私の作った物食べんと体調崩すんや!あんたは私の作った物食べんかったら生きていけへんのや!食べなあかん食べなあかん食べなあかん食べなあかん」
ドスンと、地響きが起きた。祖母の頭は食器棚にめり込み、やっと制止した。人は、青年が思っていたほど簡単には死んでくれなかった。アクション映画だと、簡単なことで凄まじい効果音がなり、人がドミノみたいに薙ぎ倒れて行くが、実際は音も微妙だし、感触も渋い。しばらくすると、まだ未練を残した蝉みたいに、祖母は手足だけをバタバタさせ始めたので、もう一度、棚の仕切りの所で頭を打ち付けた。頭蓋骨がミシミシと破損する、これもまた気持ちの良くない音と感触があった。それでも、現実の人間のしぶといことしぶといこと、まだ手足を動かそうとしていた。唯一の良心母上は、膝から崩れ落ち、何をするでもなく、泣き崩れながら、ただその凄惨な情景を鵜呑みにしていた。青年は腕が疲れてきた。何度も頭を打ち付け、原型を留めなくなる内に、周りの音がつまみを左に回すように小さくなり、今やっている頭を打ち付ける行為そのものが意味の無いことであると理解させられた後、今は懐かしい、最も待ち望んだ声がやって来た。カーテンの隙間から、ずっと見ていてくれたのだ。
「・・・・・・こそ。マルチ・・・・・・ようこそ。マルチ・ヘヴンへようこそ。あなたは選ばれました。マルチ・ヘヴンへようこそ!」
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