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第一章
気持ちよく晴れた冬の日に、烏は活発にゴミを漁り、青年は路上で起きた。人混みは流水のように小川の石をよけながら通勤通学に励んでいる。誰も足を止めることはない。唯一引っ掛かった小枝のように、マウンテンバイクを押した眼鏡のモブ青年は立ち止まり、モブの影響なのか、しばらくして藻みたいな警察が来た。「お兄さん、お兄さんってば」と語気を強めて言うのに対し、熟睡していた青年は爽やかに起こされた。「おはようございます、サー」。警官は訝しがって、嫌悪の仮面をすぐさま被り直した。二人がかりで重い家具のように持ち上げられると、青年はやっと正気を取り戻して、「すみません。本当にすみません。サー」と今にも泣き出しそうな気弱さで言った。
「君、だいぶ飲んでたの?」「電話番号は?」「免許証は持ってる?」
青年が答えられたのは一つの質問だけだった。
「はい、朝まで飲んでました、サー」
簡単な事情聴取を受けた後、実家の住所、実家の電話番号、マイナンバーカードという、青年が持ち得る唯一の自己証明でとりあえずは良しとされ、持っていたなけなしの金でタクシーに乗って家の手前にあるコンビニを目的地として告げると、青年はすぐさま眠りについた。
「お兄さん、お兄さんってば」
デジャヴの波が押し寄せてきたところで、青年は目を覚ました。先ほどの荒くれた藻よりは柔らかい、味噌汁の麩みたいな白髪の老人運転手は「お支払いお願いします」と寝違えるような角度で言っていたので、慌てて財布を出して、細かい計算皆無で唯一の大きなお札だけを出して、「少し大きいのですが、すみません、サー」と言い放った。すると麩老人は「お客様、これじゃ少し足りないのですがね・・・・・・」と、こっちに向いていない方の顔を恐らく真っ赤なデビルにして言うので、「ちょっと待っててください」と言い放ったまま逃げるようにしてタクシーを出て、コンビニで全財産を下ろした。残像のように見えた取引残高は235円。溺れているのか走っているのか判らない形でタクシーまで戻ると、麩老人の右脳から真っ赤な角が出ていたので、叫び漏らしそうになりながらお札と小銭を不足分足して足早に家路についた。
歩きながら青年は、そう言えば持ち前のリュックサックが無くなっていることに気がついた。遠目で見たら迷彩柄のように見える、実際には森の写真が全面に貼り付けられているものだ。バックやリュックの類いを、彼はその一点しか持ってなかった。つまり貴重なものだ。日付は12月26日。昨日に限って、自分へのプレゼントと称して本を2、3冊、それも普段は渋るか古本屋で探すかする、豪奢な単行本の類いだ。母親へディルドのプレゼントもあった。本体価格4000円の、海外製のかなりヒュージなディックだ。通い付けのウィクリフ寺院という雑貨屋で買ったもので、店主の通称『魔女』は「誰にプレゼントするのさ」と、毎度恋人の有無を聞いてくる親戚のおじさんみたいな態度でニヤついていた。日が日であるから、それら高級な物ばかり内包させてしまっていたのに加え、勿論、普段使いの代物も多く、女性用の香水、長年使っている紫とピンクのデザイン行方不明タオル、アンティークのミニチュアバス、ギターのカポなど、比較的物持ちのいい青年にとっては、余りにもノスタルジックなものばかり無くしてしまっていて、傷心していた。思い出すほどに惜しい物ばかりで、いっそ誰かに盗られるくらいなら、全部鍋釜に入れて混ぜてしまった後に、塩を沢山振りかけてスープにして魔女に喜んで貰えばよかったのにと、そんなことさえ考えてしまうほど、失って改めて心苦しいほどに愛おしくなった。ポケットには財布と煙草と、いつかのラブホテルのライターしかない。価値のない物ばかりだ。海月みたいに、フワフワ浮遊するように歩きながら、青年は煙草に火を点けた。緑色のパッケージの香りは美味い。青年は遠くに見える山を見ながら深呼吸した。わかば、バット、キャメルと、前方に特殊な駱駝よろしく三つ瘤山。少し霞掛かって、実際より遠くに見える。
煙草を吸いながら、青年は自分自身で二足歩行していることに妙な違和感を感じた。恐らく駅近くの中心街と思われる所から、タクシーで最寄りのコンビニまで着いた後、歩いている。青年は未だに免許を持っていなかった。警察に見せる免許もないのだ。主要な移動手段は自転車なのだが、それをどこかに置いてきた。路上で起きたときにはすでに無かった。自転車があれば、もっと警察といざこざしていただろうし、少なくともタクシーに乗ろうとはならなかったはずだ。一体どこに置いてきたのだろうか。記憶というのはじっとできないようで、すぐにニューロンと駆けっこをして、逃げてしまう。
「ただいま」と青年がいつもと変わらぬ様子で言葉を投げると、それは宙を切って三角コーナーまで一直線だった。外には青年の母方の祖母の自転車があるので、どこか近くに潜んでいるはずなのだが、返事がない。洗濯物で首でも吊ったのかも知れない。青年が気にせず二階の自室へ向かおうとすると、謀ったようにそのタイミングを捉えて、RPGの醜いキャラクターみたく目の前に現れた。「何がただいまや!今何時やと思ってんのや?いい加減にしいや」と限りなく汚い言葉をヘドロみたいに吹きかける。それだけならまだしも、青年の顔をバシバシと、まるでコントみたいに洗濯物で叩き付け、男子中学生のお遊びみたいに、偶にタオルが撓って蛇みたいに鞭みたいに、青年の頬に斬り掛かったり、目を潰そうとしたりする。それが青年の逆鱗に触れて、祖母を半殺しにするようなことがあったら大変面白いが、青年は哀しみも喜びも表さず、二階の方へと振り向き直って、ただ肩を落として自室に籠もった。鍵がないので、簡易的かつ梃子的な方法で引き戸にストッパーを掛けて、灰色の寝間着に着替え、そのまま眠りについた。しばらく祖母が扉を叩いたり、「早く出てこんか!ご飯作ったから!食べろ食べろ!今私が作ったんや!はよ食べんか!あんたのため思って作ったんや!早く出てこい!この教育の失敗が!」と扉を何かしらの棒で叩いたり、叫んだり喚いたり。それでも青年は余り気にせず、静寂の中で眠りについた。
17時に枕元のデジタル時計のアラームで目を覚ました青年は直ぐさま明かりを点け、ベッドを嫌々出ると、学習机に置いてあるシフト表に目をやり、26の日付を下の方へと順に追って、表の左側の自身の名前と交わる点を探した。〈19:30~〉という表記が目に入った瞬間、半ば項垂れて、本日バイトがあることを知った。まさかとは思っていたが、最悪の事態だ。尚のこと、昨日の自分を体育館裏に呼び出して土下座させたくなった。しかし迷ってはいられない。バイト先の本屋へ電話を掛けて重大な仮病を偽るか、浅蜊を大量虐殺してその場を凌ぐか、第三の選択肢として、祖母を八つ裂きにして、そのような細かい悩みを吹き飛ばすか、青年は一刻を争う選択を迫られている。二つ目の選択肢を取るとして、バイトに間に合わなくなってしまうからだ。立ち上がった時には少しフラついていたが、思いの外二日酔いは深くないようだ。目が回る感覚があるものの、意識が混濁して寝込んだり、ずっと吐き気がする程では無い。恐らくもう吐き切ってしまっていたのだろう。結句、生まれつき電話がこの世で最も苦手な青年は、一番容易いはずの第一の選択肢は諦め、第二、第三の選択肢を考えた。〈17:10〉このまま悩み続けても埒が明かない。まずヤニだらけの身体を清めるため、シャワーを浴びる。シャワーを出た後、先に薬缶で水を沸騰させる。この間に悪辣な肌を労るために母の化粧水と乳液を盗み使って、保湿する。ドライヤーで白髪だらけの粗悪な髪を乾燥させる。水がカンカンな熱湯になって怒りの飛沫を上げた所で、インスタントの浅蜊汁を三つほど準備して、冷ますことなく一気に飲む。最後に、肝臓を労る必ず横文字の医薬品飲料で火傷した口内と肝臓をカバーしながら自室へ戻り、バイト先の会社名ロゴが刻印されたシャツへと着替えて、黒のスラックス、何故か統制される黒の靴下、それにブレザー、革ジャンを引っ掛けて、女性用のローファーのような革靴を履いていざ出陣。この手順を踏んで自転車で1時間程度掛かるバイト先に行くにはもう動き出さねばならない。青年が第三の選択肢をまたの機会へとお預けにして動き出した時のデジタル時計の表記は〈17:20〉。さあ、上記の手順に従ったらいつもと何も変わらぬ一日になるぞ!急げ!と自分を鼓舞した矢先、ふと股間に手をやると灰色の寝間着の該当箇所がメタルグレーになっていた。夢精にしては量が多かったので、青年は脳裏に悟った。漏らしたのだ。
布団の上の濡れも確認して、匂いも精子のようではなかったので、ベッドを抜け殻みたいに開け放って、暖房の温度を上げた。隣の部屋のタンスに下着を取りに行き、直ぐさま新しいトランクスに着替えた後は、びしょ濡れになった瀕死のトランクスを部屋にあったビニール袋に完全に閉じ込めるようにして入れた。一息ついた青年は、鉢巻きを頭に血が届かなくなる強さで締める気概で、一階へと下りて行った。そこでは醜いトロールが洗濯物を持って彷徨っていた。「老犬の散歩でも行っていれば良かったものを・・・・・・」と青年は残念そうな顔をして、風呂場へ向かう。
「何回起こしても起きん。馬鹿みたいに寝て。せっかく私がご飯を作ってやったのに。なんの感謝もない。馬鹿みたいな顔して。ほんで今日はバイト行くんかいな。しょうもない」
先程のような快活さを失っても尚、意地汚く沼みたいなことをずっと言っている祖母とできるだけ顔を合わさないようにして、青年は前述の第二の選択肢を実行した。一つ違うのは、ビニールに魚みたいに捕獲されたトランクスを、更に黒い大きめのビニールに入れてそれを携えながら出発したことだ。
忌まわしき家を出ると、自転車がないことに気がついた。青年は慌てふためくわけではなく、着実に歩き始めた。手持ちぶさたなので煙草に火を点け、唯一フルで歌える洋楽を、まるで自分の曲かのように鼻歌った。
それほど距離のない最寄りの駅まで着くと、駅の出入り口の目の前にある電話ボックスの中に入って、煙草とライターが入っている革ジャンの右ポケットからメモ帳を出して、時代に不相応な数書き付けられている電話番号から『一応彼女』とメモされている箇所を見つけ、迷わず連絡した。女は丁度仕事が終わったようで、青年が迎えに来てと懇願すると、「直ぐに行くから待ってなさい」とどうでもいい母性を見せつけて応えてくれた。
約5分間煙草を吸い続けた結果、女が迎えに来ると、青年は急いで車に乗り込んだ。「久々だね。迎えに来てくれてありがとう」青年がそう言うと、女は豚みたいな顔を醜く歪めて、それでもどこか愛嬌のある感じで笑った。「私物凄く会いたかったのよ。スマホ無くしたのは分かってるけど、偶には連絡頂戴よ」青年は窓の外を見ながら頷いた。
「それで、今日はどこに行きたいの?」
「あ、言うの忘れてたけど、バイト先まで送って欲しい」
「何よそれ、私に会いたかったんじゃないの?」
ふと横を見ると、フックで鼻を吊り上げたような顔をした女が上目遣いをしていたので、思わず吹き出しそうになって、それを我慢するために青年は彼女にキスをした。
「後で行くから。終わった後も迎えに来てくれたらね」
「うん、分かった」今度は女からキスをした。
また混沌とした夜が始まった。その口火を切ったのは、青年がわざと彼女の車の助手席に忘れて行った袋の中のトランクスであるし、性欲の溜まった豚みたいな彼女の側の思惑でもあるし、女性従業員ばかりの本屋でのバイトでもある。
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