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第二章
バイト先に着くと、「それじゃ23時30分にここに迎えに来るわね!」と上機嫌な豚は出荷されるように早々に去って行った。青年は憂鬱で仕方なかった。昨日からのことも、これから始まる悪夢も、悪い方にばかり想像できた。その兆候に腕時計を忘れていることに気付いた。泥酔して何もかも無くしたにも関わらず、中学3年の時に買って貰った腕時計だけは戦果を誇り持ち帰るように腕に巻き付けて共に帰って来たというのに、一番実践的に用いるバイト先に持ってくるのを忘れてしまったのだ。悪いことが起きるに決まっている。それにもはや起きているのだ。遅刻したのか間に合っているのか、現時点で知りようがないではないか。間に合っているのならば、何も厭わずそのまま素直に入ればいいし、遅刻しているのならば、仮病を使う線が再度浮上してくる。そもそも気持ち的に、素直に入って行けない。紛いなりにも、バイトだけは勤勉にやって来て、日を間違えたこともなければ、遅刻したこともない。それに、大きな猫の大きな化けの皮を被っているお陰で、勤務態度は大変よろしいとされているのだ。誰も青年が、若くして煙草の煙と圧倒的な酒に溺れているとは予想だにしていないのだ。もはや、バイト自体を飛ぶようなことがあれば、それは辞表と同義であって、その判断を下す時間を――とても便利な円形のタイムを失っているのだ。彼女の車で何かしらを見ればよかったのだが、窓の外を見て気を逸らすのがやっとだったせいで、そんなこと思いつ付きもしなかった。失態だ。裏口の鉄の重い扉の前に立つ。従業員はここから入って来るか、正面の大きな駐車場に車を停めて、そのまま一般の客のように店内を見渡しながら入ってくる者に二分される。それらの違いは詳しくは分からないが、裏口の方に車を停められる特権を持つ社員さんは、基本的に裏口から入って来る。自転車で来る者が多いバイトも、駐輪場が店の側面にあるので、必然的に裏口から入って来ることになる。階級的に言えば、トップと最下層、つまり社員とバイトが裏口から入って来て、その間の階級に宛がわれる従業員の人数的なメインを占めるパートなどのスタッフ達が一般の駐車場に停める方なのだ。恐らくはそう言う分類だと思われる。詳しいことは分からないが。そして裏口、つまり裏での作業を行う倉庫みたいな所に直接通じている箇所は重たい鉄の扉が聳え立っていて、ほぼ毎日入って行くには気が重い。なので青年はいつも扉の前を素通りして、その奥に幾つかある大きな室外機の横に人工的に設置された喫煙所に迷わず向かう。そうは言っても、コンビニ前のような、簡易的な円柱の灰皿があるだけで、特に分煙などされることもなく、ご自由に吸えるようにと、40人近くいる従業員の中で唯一煙草を嗜む完璧な白髪の課長が勝手に設置しただけなのだ。いつからか移動してきたその課長が悠々と煙草を吸う姿を見て、青年は生意気にもバイトの前に必ず吸うようになった。元々は、腐っても接客業だからと、あってもなくても同じような拘りを以て喫煙を控えていたが、近頃は主任との対立もあり、煙草が無ければやっていけなくなった。腕時計と同じように、酔いどれでも手放さなかった物の一つだ。時間のことはさておいて、煙草の煙で思考をまとめることにした。嫌煙家の増える時代、青年はこれ以上にない思考促進ツールだと友人らに吹聴していた。「酒はオススメしないけど、煙草はいいよ。最も都合の好い彼女みたいなものだよ。会いたい時に会ってくれるんだ。人間みたいに時間的制約が無いし、お金も交際費よりは掛からないんじゃないのかな。うん。それにね、かなり気持ちよくしてくれるよ」そう言って、友人に勧めても、結局初めてくれる友人はおらず、余計に青年を独りに、煙草好きにさせてしまう要因となっていたのだ。
「ルーティンワークルーティンワーク」そう言いながら震えながら、青年は煙草に火を点けようとした。寒さのせいか風のせいか、小さな炎は烏の寝息に吸い取られるようにして儚く消えてしまった。もう一度チャレンジしても同じことの繰り返しなので、苛立って、意味があるのか全く分からない行為、ライターを自慰みたいに上下に振り扱いてみると、あら不思議功を奏して火が点った。ハリウッド映画の誇張された煙草の草が燃える音が実際にした。綿密にくしゃくしゃと丸めた出来の悪い台本に、憎悪による火を灯したような、花火が発芽するまでの経路みたいな音だ。青年はあの音が三度の飯よりも好きだったので、自分が発した事に感涙して、肺にサヨウナラを告げてもう一度本意気で吸い込んだが、いとも素っ頓狂な空振りみたいな音がしただけであった。興醒め序でに震えが止まらなくなった。あれは、ハリウッド映画でもそうだったが、確かにひと吸い目の音だったかも知れない。煙草一本一本においての初体験の音だったのだ。処女膜の痛みであったのだ。
煙草を一本吸い終わると、雁字搦めになってしまった頭を元の位置に戻してカチリと嵌めてみた。すると月が、満月ではないが愛おしく肥え太った月が、目尻に皺を作って優しく微笑んでいた。「いいよ、もう一本お吸いなさいよ。いったい何に悩んでるの?深呼吸して、忘れちゃいなさい。好きな煙を肺に入れなさい。その代わりもう一本だけだよ。それを吸ったら、迷わずあの鉄の壁に立ち向かいなさい」腹話術みたいに何処も動かさず、聖母みたいな抱擁力で青年に語りかけた。三日三晩掛けて作った光り輝く黄金の泥団子を飼い犬に食べられた時以来の、太平洋から悲しみを抽出したような涙を流した。
涙を拭いて、立ちはだかる鉄の壁の前に立つ。扉はいとも簡単に開いた。
いつも通りの光景。緑色の格子で覆われて積まれた少年漫画雑誌。それぞれ売り場が近い物にまとめられた様々な専門雑誌。空調の絶妙に効いた小さな小さな体育館ほどの空間。人がいれば挨拶をするが、今日も今日とてその場には誰もいない。ふと男子トイレと女子トイレの間の頭上にある時計に目をやる。〈19:24〉なんだ、外にいるときの葛藤が嘘みたいに間に合っているではないか。安堵と興醒めの最中、それでも就業への準備を始めないといけない。本日担当するレジだけを確認して控え室に入る。電気をつけ扉を閉めると、恐怖にも似た全身を包む安堵感に苛まれた。革ジャンを脱ぎ一先ず黄緑色のパイプ椅子に掛けると、次はブレザーを脱ぎ一番端にあるロッカーの上の段を開いてハンガーに掛ける。そして社名ロゴが入った深い臙脂色の丸まったエプロンを取り出し長机に置いて、椅子に掛けた革ジャンをブレザーの上からハンガーに掛ける。これが最速の準備法だ。そして姿鏡を見ながらエプロンを着て細かい点を整え、いつからか当たり前になったマスクを仕上げに着けると、気味の悪い笑顔を一度作ってから、扉を開けたままにして電気を消した。
タイムカードを切ったのは〈19:27〉。レジに入る時間まで30分近くあるから、いつもと同じ出勤時間でも少しゆとりが持てる。まず最初にやるべきことは、チェーンのように指に巻き付いた煙草の匂いを緩和させるために、トイレに行って執拗に人差し指、中指、親指を洗うことだ。両手を弾いた後にハンドドライヤーで粒をさらに飛ばし、トイレから出た後にハンカチでこれまた執拗に手を拭く。アルコール消毒をして両手をハタハタと上下に振って乾かす。ここまでの儀式が、青年の喫煙後からバイトの始まりまでのルーティーンである。一段落した所で、目の前を主任が通る。「おはようございます!」青年は自分でも驚くほど快活な挨拶をした。だが主任からは何も返ってこなかった。快活な響きだけが、名残惜しそうに本屋裏の空間に充満した。ブリブリとお尻を揺らしながら歩く主任は、特に用が無くても、戦争の終結を告げるメッセンジャーみたいにどこかへと急いでいる。せっかちで器量の悪い女主任だ。後に遅れて同じバイトの女の子が挨拶をしてきた。純粋な黒髪で目がクリクリとした、とても器量の良い女性で、幼馴染みだとしたら紛う事なき恋をしてしまいそうな容姿だ。「おはようございます!林さん。今日主任さん不機嫌だったりしますか?」青年は後半を慎重な小声で尋ねた。
「え、そんなことないと思いますよ。さっきまで楽しそうに奥山さん達としゃべってましたから。どうかされたんですか?」
「いやいや、なんとなく聞いてみただけ、ですよ」
話したいことが山のようにあっても、早めに切り上げてしまうのが青年の仕事中の癖であった。バイトの面々とは、敬語とタメ口が織り混ざった不思議な言葉遣いをするのも、癖の一つだ。
まだ終わっていなかった雑誌の付録組みをして、男性アイドルが表紙の雑誌のシュリンクを全て完璧に熟したところで、トイレ間の時計はちょうど20時手前だったので、そのまま中央のレジに向かうことにした。
ここからが戦争の始まりだ。
中央のレジには4つのレジがある。基本的に1、2レジだけが開かれていて、忙しくなると3、4レジを開けることになっている。青年は20時から2レジに入ることになっていた。夜も更け客足は疎らと言えど、まだまだ忙しい時間帯だ。それに、今日は土曜日だ。
「おはようございます。レジ替わります」
「須野くん、お疲れ様ですぅ~。ごめんね、まだ現金もクレジットも合わせられてないですぅ~」
「僕やっておくんでいいですよ!早く休憩行っちゃってください!」
「いつもありがとね~」
年増だが愛嬌と癖のあるスタッフはそよ風のように軽い足取りで去って行った。まず始めにレジ内を整理する。後のために違算がないかを金種登録のレシートで確認して、クレジットの控えをキャッシュトレーに乗せポケットから関数電卓を出す。客が来ない合間を縫ってものの20秒、前の点検から増えた分の控えを全て足し合わせ、前の束と合算して、レジ上で点検画面を表示して確認する。クレジット点検完了。ここでお客様がいらっしゃる。青年はまず客の本を見る。「金色の鱒」――恐らく歴史小説か何かだろう。水墨画の様な淡い感じで鱒が生々しく描かれ、その迫力に比べれば少しチープにも思えるほどテカテカと金色で題名が彫ってある。分厚い単行本だ。購入者はきっと、おっとりとした初老の女性か愛国者の頑固親父辺りであろう。「“有料の”レジ袋はご入り用ですか?」「いいえ、要りません」丁寧に答えたのは初老の女性だった。ナマケモノに似ているような、目尻の下がった、心底優しそうな女性だ。こういう人と対面すると、不思議と接客が丁寧になってゆく。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
「お世話になりました」
初老の女性は、軽く品のあるお辞儀までして、最後まで丁寧にお淑やかに帰って行った。青年は初夏の日向ぼっこみたいな気持ちになった。最悪な日常が、少しだけ黄色く温まった気がした。それから立て続けに1、2レジに客は訪れたが、列をなすことはなく、スムーズに会計は流れた。流れが途切れた内に、途中止めになっていたコインカウンター素早く埋め、金種登録の画面を表示して、お札も合わせ24秒で数え終わった。違算がない時の勘定のスピードはピカイチだ。直ぐさま接客に万全の体勢を整えて、余裕ができると、溜まって来た防犯タグやスリップを整理して、日中から荒れ続けてきた争いの場を清める。ポンッと車の雑誌が置かれた。青年は慌てて「いらっしゃいませ」と低い姿勢でお辞儀をした。
「ふくろ」
「はい、レジ袋は有料ですがよろしいでしょうか?」
「は?ふくろって言ってるよね。兄ちゃん耳悪いの?」
「大変失礼いたしました。袋代を合わせまして、765円のお買い上げでございます」
中年の下っ端ヤンキー風、顔面中に知能の低さが滲み出ている生ゴミみたいな男の顔を、ちらりと目にした。男は千円札を目の前のトレーの真横に置いて、魚の骨がはみ出している黒い生ゴミ袋みたいな匂いをさせながら睨み付けている。人生のどこかのタイミングで、目をやられてしまったのかも知れない。可哀想に。青年は喉の奥が熱くなるのを感じた。この男は、“そういう”生き物なのだ。
「235円のお返しでごさいます。ありがとうございました」
生ゴミ男は、唯一の友達みたいにレジ袋を態々担いで消えていった。『死んだ方がいい。死ねばいいのに。二度と来るな。二足歩行の腐れ生ゴミ』青年は心の中でシャウトした。
あっという間に21時が来て、青年は2レジを外れ、3、4レジの締めに入った。中央レジの全てのレジの締めを任されているので、責任重大であって、店自体は23時に閉まるものの、早め早めの対応を余儀なくされる。バイトには少々重荷な業務だが、青年が一番好きな作業だ。そして従業員の中でも社員を抜いて早い。
コインカウンターを持って3、4レジに向かうと、まずそれぞれのレジで電卓を用意し、手には関数電卓を持ち、まずクレジットの控えを計算する。それがレジの表記と合っていたならば、クレジット端末の集計をそれぞれのレジを行き来しながら出す。これを最初にやるのが重要で、この集計のレシートを端末で出す作業だけは、人力ではより早くできない、機械任せの過程だからだ。そして、合わせておいたクレジット類の合計をそれぞれの電卓に打ち込み、端末から出てくるクレジット、ID、WAON、Edyのレシートを引き算していくと、計算を一つ省略して、Edyの集計が出て来た時点で次に移れる。その間に両レジの図書カードを合計して、精算を出し端末の電源を切っておく。余った絶妙な時間で、クレジット類の集計が早く終わりそうなレジにてコインカウンターを立てかけて数え始める。10分。2つのレジを締め終わったのが15分。最速だ。まだレジの締め作業など夢のまた夢だった時期、可愛らしいバイトの林さんはこの作業をやり遂げるのに22時まで掛かっていて、それは即ち林さんの帰る時間だったので、最後の1時間林さんに会えない青年は、そのタイムシフトを恨んだりもしていた。それが今や、4分の1の時間でレジを締められるようになっていた。締めに関しては、主任などは微塵も留めていないが、バイト仲間は一目置いていた。青年は誇らしく思っていた。
毎度早く締め終わるので、余った時間で社員の手伝いをする。入金が済んだ後、嫌々ながらも、主任へと仕事を伺いに行った。
「それじゃ、ヘラ持って汚い所掃除して。前もやったでしょ。ガムみたいなのが着いてる所」
「はい、分かりました!」
背後で男性の社員に「もぅ~そうなんですよ。私ばっかり困らされちゃって~」と猫なで声で言う気味の悪い妖怪の残像を感じた。
物置の様な雑多な所に、未だに買ったばかりの状態のような、薄いプラスチックの包装に戻されているヘラを取り出して、雑巾と水を入れた霧吹きを持って店内を這いずり回った。黒く点になっている、ガムやら汚れやらをピンポイントで綺麗にする作業だ。掃除好きな青年は、初めの頃こそ一生懸命励んでいたが、男性の社員に「須野くん、なんでそんなことしているの?」と言われ、何かを察した青年は「主任に言われました」とは言えずに、「汚れていたので」と笑顔を作って慈善染みて見せただけであった。そして段々と、その作業を任されているのが自分だけなのだと悟った。最初からそんな気はしていたのだ。それに明確に気付いた日の帰り、事務室にタイムカードを切りに言った青年は社員が話しているのを聞いた。
「須野くんが店中に座り込んでガムや汚れとかを取ってくれてたんだけどさ、体勢もキツそうだし、掃除は朝やって貰うから、別にやらなくていいのにね」
男性社員が公平な意見を述べると、主任は「そうなんですかぁ?可哀想に~綺麗好きとは聞いてたけど、あんまりそれを出されても迷惑ですよねぇ~」
その日から主任が嫌いだった。
今日も床を眺めて回る。また主任に裏で言われているのだろうなと思う。そういう人なのだ。青年が入る少し前に2週間違いで入っていた唯一の男性アルバイターは、辞める前に「須野さん、ここはね、女尊男卑かも知れませんよ」とニヤつきながらふと言っていた。彼はそれを重く受けている風ではなく、なんとなく思ったから発言してみただけだろうが、その言葉が、青年には鉛みたいに重くのしかかっていた。その先人バイターよりも悪いのは、実際に検証してみる時間が、青年に限ってはあったと言うことだ。約40人中5人の男達。社員3人、スタッフ1人、バイト1人。階級的な意味はよく知らないが、社会的に言えばこの会社では男性が強いように思える。立場という意味でだ。でも実際仕事の大半を仕切っているのは女性だ。寧ろ、現場では女性の方がよっぽどビシバシ活躍しており、男性が補助に回っているように見える。それは、男性が楽をする立ち回りをしている、という意味ではなく。では先人バイターの彼はどういうニュアンスで「女尊男卑」と言ったのか、青年はより長く働いて気付いた。そのニュアンスの全ては『主任』1人に集約される。器量の悪い、クラスに居たら必ず陽の女子グループに虐められているような、陰の者だ。ブリブリと太り髪はボサノヴァで、小鳥を2匹内包しているようなボリューム。顔はクレイアニメみたくのっぺりと生意気で、美しくも可愛くもない。何より醜いのはその性格で、男性社員の前ではぶりっこアイドルみたいに振る舞い、女性スタッフの前では流行に乗る仲の良い友人達の代表格、唯一、男性のアルバイトだけ目の敵にして扱き使う。思うに、ただ虐められていただけではなく、男にも辛く当たられていたのだと思う。バックグラウンドを勝手に想像、でも強ち遠くはなさそうな推理を立ててから青年は、怒りよりも哀れみで彼女を対処するようになった。
「ちょっと、ちゃんとやって」
奴隷の様に跪いた顔を上げると主任がいた。謝罪し、見透かされないように頭の中を空にし、その場をやり過ごそうとしたら、雑巾で床を拭いていた右手の小指を踏んづけて行かれた。わざとじゃない素振りをしているがわざとらしい。ブリブリと忙しなく消えて行った。爪の根元の皮膚が抉れて、血が出ていた。時間も少し経ったようだし、時計の確認のためにも裏に戻り、いい頃合いなのを確認してからトイレに入って、執拗に手を洗った。主任の唾液でも髪の毛の細胞でも、少しでも身体の中に侵入されることが許せなかった。ハンドソープが染みて、余計に右手の小指の皮が抉れていく気分。乾かして、入念に拭いた。アルコールで小指を避けて消毒すると、レジへ戻った。〈22:00〉1レジを替わった。この時間からはお問い合わせのレファさんもおらず、2レジに入る者もいない。完全に孤独な時間が始まる。
「あ、怪我してる。どうしたの?」
レジを替わった後に帰る準備をしていた林さんが声を掛けてきた。答えられずにいると、エプロンのポケットから絆創膏を出して、右手を取って小指に巻き付けた。幼馴染みだったら、青年はこの場で、絆創膏を指輪に見立ててプロポーズしていただろう。
「ありがとう。やっといいことがあった」
「そんなことないよ。須野さん、これからも頑張ってね。お疲れ様です」
後ろ姿に官能的なジャスミンの香水を感じながら、青年は無理矢理顔を彼女から離した。
幾らか疎らに客が来た後で、2レジの締めを進めながら、コード決済を合わようとしていた。取り扱っているものだけでも、今はPayPay、aupay、d払い・メルペイの3種と、徐々に複雑になって来た電子マネー。中央ではないコミックのレジも合わせて、5つのレジの3種のコード決済を1レジを受け持ちながら合わせる。パソコンでそれぞれの集計を見ながら計算して、中央レジだけでは確認できないコミックレジの予想値を出す。インターカムで確認する。ズレがあった場合、できる範囲で原因の予測をつける。PayPayがパソコン上よりレジ上で1320円多く、aupayがパソコン上よりレジ上で1320円少ない。つまり、レジでaupayで打つはずのものをPayPayで打っている。お会計は1320円。全くその様に報告をし、駆けつけた主任にその誤差がでるまでの計算を書いた表を見せた。パソコン上とレジ上で何かしら確認した後、ブルドッグに追われるようにしてブリブリと裏へ走って行った。しばらくすると主任が帰ってきて怒鳴りつけるように「ねぇ、PayPayが1320円少ないんだよね?」と迫真の顔で言うので、青年は無感情に「PayPayが“レジ上”で多いので、aupayを間違えてPayPayで打っている、レジ上のミスだと思います」と言った。勿論なんの嫌味も無く、淡々と事実を伝えただけだ。すると激昂した主任は猛獣みたいな形相で計算した紙を叩き付け、「なら最初からそう言ってよ。時間取らせやがって」と輩みたいなことを吐き捨てて、裏へ戻っていった。最初からそう言っていたし、叩き付けられた紙にも綺麗にそう書いてある。青年はとても哀しくなって、喉の奥が熱くなって、泣きそうになった。
慰めるように差し出された『The Catcher in the Rye』。「お願いします」とか細い透明な声がした。六花のような、美しさと冷気を纏っていた。青年の一番好きな作家だ。邦訳されている物は全て全訳者で読了し、原書もそれぞれ手に入れて、なんとか読み進めている。映画の中で異常者が執拗に同作家の同じ本を何冊もコレクトしていたとFBIのプロファイリングチームが分析していた、あの作家だ。青年は自身の好きな作家の場合、購入者の人物像を当てることが途端にできなくなる。見ると、タータンチェックのマフラーを首が絞まるほど巻いた、全くコントラストな色白の女子高生であった。初恋の相手との再会のような気分であった。気を取られないように、頼まれた新書のブックカバーを職人みたく限りなく丁寧に巻いて惜しくも「ありがとうございました」と、本気の「またご利用くださいませ」を放った。
瞬く間に時間は過ぎた。レジ上の時計を見ると閉店の23時まであと30分であったので、先ほどのコード決済が全て修正され合っていることを確かめた後に2レジを颯爽と締めた。〈22:40〉。このまま何事も無ければ、今日は早くレジを締めて帰れそうだ。安心し切ってレジ周りを整理整頓していると、不規則にカートを押す音が聞こえた。肩までの灰色の髪の毛。湾曲した腰。それに何より、臭いだ。誰がどう臭っても、風呂に入ってない臭い。傷んだ漬け物みたいな、鼻の奥にツンと来る臭いだ。ウイルス対策の透明なシートを悠々と通り越して来る。
「いらっしゃいませ。有料のレジ袋は御入り用ですか?」
「いや、今日私は持って来た。ほら持ってる」
多くの人間がこのように言う、分からなくもない主観の問題がこのような感じだ。「要るか要らないか?」と問うているのに、「YesかNoか?」と問うているのに、「持っている」と答える。分からなくもないが、質問には答えていない。日本語が難しすぎるのだ。でもこの際は、その主観が強すぎる場合。これは接客業では一番厄介だ。
「ありがとうございます。それではお会計失礼致します」
カートから大量の雑誌が入ったかごを置かれる。機械的なテンポで商品を通して行く。
「分けて」
「すみません。もう一度お願いします」
「分けて」
「袋が御入り用でしたか?」
「はぁ?違う。PayPay、分けて」
「失礼いたしました。それではお会計二回に分けさせて頂きますね」
「早くして」
ナメクジみたいな顔と態度で、この婆さんは邪悪さを押しつけてくる。一つ一つの所作が重いので、後ろに列ができてくる。助けを呼びたいが、もう2レジは締めてしまった。青年はナメクジに飲み込まれてしまった。
「ありがとうございました。いらっしゃいませ」
22時50分を過ぎてから、駆け込むように客が来て、1レジを締める準備は整わなかった。やっとこさコインカウンターを並び終えた所で、23時、閉店時間を迎えた。一息つくと雑誌のコーナーの方で見回っていたスタッフさんが話す声がして、次の瞬間には「お客様です。レジお願いします」と声がした。眼鏡を掛けた白髪の真面目そうな中年男性は、一寸の悪気もなくやって来て、去って行った。一部PayPayで支払われ、残りを現金で支払われたので、準備してきた1レジの締めがパーになった。コインカウンターを、最後の会計の足し引きで計算した後、念のため全て数え直して、コード決済も合わせ直した。いつもよりも少し遅れたが、それでも従業員内最速の12分でレジ締めを全て終わらした。事務室の方へ一目散に駆けて、ふんぞり返っていた主任に「オールでました!お願いします!」と意気揚々と伝えると「遅い。そこに置いといて」と言われた。勤務時間は23時30分までで、少し早いが、タイムカードを切ってエプロンを脱ぎ、外に出て所定の位置で煙草を吸った。またひと吸い目にハリウッドみたいな音がして、それほど長くはない人生の中で、最も美味い味がした。月はもうお眠だったが、相変わらず優しい顔をしていた。深呼吸して、まだ彼女は迎えに来ないのかなと思った。少し早いはずだったが、声に答えてくれるように車が停まった。鉄の扉の横で煙草を吸っているのにどうやら気付いていない様子で、スマホを眺めていたので、煙草を消して、青年の方から出向いた。窓を優しく叩く。笑顔で振り向く。
「おかえり~お疲れ様!」
乗車する青年に対して容赦なく話し掛ける。
「疲れたでしょ!どうする?飲みに行く?」
「酒買って家でゆっくり飲みたいな。奈央と」
「え、いいけど、珍しいね。じゃあコンビニ寄ろっか」
ふと彼女の方を見ると、思っていた様な豚ではなかった。疲れ目か幻覚か、その愛嬌の部分が全面に押し出されて、愛おしく、抱きしめたく思えてきた。青年はその豊満な身体を苦しめるように抱きしめると、全てを奪ってしまうようなキスをした。
バイト先の目の前で心臓に悪いと、月は目を覚まし、お日様みたいにニヤついていた。
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