序章

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序章

「死んだ方がいいよ。死んだ方がいい。生きてちゃダメなんだ。死んだ方がいい」 「・・・・・・こそ。マルチ・・・・・・ようこそ。マルチ・ヘヴンへようこそ」  目を覚ますと、白い立方体に閉じ込められていた。リノリウム、引き摺る点滴、香ばしい消毒の匂い。ここは病院か?もしくはその類いの収容所かもしれない。門が高い精神科のB棟。いや、違う。そうではない立方体の部屋。ただの小さな部屋だ。個室。真ん中には井戸がある。そして周りには・・・・・・胃酸と内容物がある。そうだ。ここは、よく知るトイレではないか。一般的な白いツルツルとした水洗のトイレ。みんなもよく知っているはず。トイレだ。じゃあいったい、どこのトイレなんだ。教会にトイレなんてあるのか?とにかく眩しい。沢山の光が、世界中のありとあらゆる都市の光が、一斉にこの一室に集まっていて五月蠅い。ふと目をやると、驚くべきことに、華奢で細長い化け物なら簡単に覗けるぐらい、天井との間に隙間が空いている。それに地べたを舐める序でに、ひょっと下から上を巻き添えにして目を動かすと、ほら、下からも見えそうじゃないか。隙間だらけじゃないか。最も気に食わないのは、綺麗な店の水洗トイレにありがちな、ドアの隙間が確実に数ミリ空いている仕様。絶対に下敷きぐらい通るだろうっていう、外からは見えませんから、みたいなテンションでデザインされたのかも知れないが、中からはうっすらと外が見えてしまっている仕様。ねぇ、神様。これが一番気に食わない。もっと気に食わないのはその言い方。「死んだ方がいい」という、生意気な言い方。「死ね」と言ってくれたら整った客観だと解るのに、「死んだ方がいい」だったら、なんだか自分の中の小さな意志が、確固たる主観が、現実に実行しようとしているみたいじゃないか。どっち付かずだから、余計に恐ろしいんだ。君が言ったのかい?僕が言ったのかい?わからない。それにあの忌々しい女。姿も見ていないのに、指図ばかりをしてくる。碌でもないビッチだろう。その声から溢れ出る母性、天性の愛、容姿の良さ。どれを取っても気に食わない。そもそも彼女を知らないし、発言の内容だって、意味不明じゃないか。クスリでもやっているんだろう。俺に話し掛けてくるんじゃないよ。阿婆擦れ婆。  もはや固形物の残らぬ嘔吐で飛ぶ鳥後に糞尿。男は便器と寄り添うように、妙な形で仰向けに、古着屋で買った持ち前の革ジャンを吐瀉物で染め上げて笑った。 「人間ってのは、吐瀉物に塗れて死んでいくぐらいが丁度いいよな」  この瞬間、マルチ・ヘヴンの方が彼にゆっくりと近づいた。音も立てず、影を追うように、地球上に生きる生物は誰しも気付かなかった。指が沢山あるかの巨人だけは、じっとりと涙を流していた。もちろん顔を持ち合わせずに。 「マルチ・ヘヴンへようこそ」
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