「遺書」谷崎トルク

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 ほどなくして大学を卒業し、君とは会わなくなった。僕は大手の銀行に就職し、君はどこかの官庁に入庁できたと風の噂で聞いた。僕は日々の仕事に忙殺され、君を思い出さないようになっていた。三十歳を前にして僕は友子と結婚を決めた。お互いの家に挨拶を済ませ、結婚式の案内状を書いている時、ふと友子が顔を上げた。  君に案内状を送りたいと言ったのだ。  僕はそれを許した。いつまでも君を恨むのはおかしいし、僕たちは結婚するのだ。  案内状を送ると君から連絡が来た。二人で会う事になった。あの日の事をきっと君も憶えていると思う。  君と会うのは八年ぶりだった。君は学生の頃と何も変わっていなかった。 「久しぶりだな。元気にしてたか?」  君の笑顔を見て、僕はほとんど泣きそうになっていた。  八年もの間、どうして君と会わなかったのだろうと後悔した。  だって、そうだろう?  僕と君はかけがえのない親友だったんだ。  そして、その別離のきっかけを作った友子の事を初めて憎いと思った。同時に自分の中にそんな感情があった事に酷く驚いた。  酒が進んだ頃、君がぽつりと呟いた。 「俺はこの八年間、本当に辛かった」  その言葉でやはり君は友子が好きだったのだと思った。 「……悪かったな」 「いや、いいんだ」  相変わらず君は酒に強かった。僕はいつもより早く酔いが回っていた。 「仕事はどうなんだ?」  僕が尋ねると君は少し疲れた顔をした。 「どこも一緒だよな。いかにヘマをしないか、マイナスを取らないか、ただそれだけのゲームだ。ライバルがミスをしないか口から涎を垂らしながら待ってるような世界だよ。全く、くだらない。何もかもが無意味だ」  それは銀行も同じだった。仕事ができる人間が出世するのではなく、無傷の小心者が出世する世界だった。 「あの頃は楽しかったよな。毎日馬鹿みたいに酒飲んで騒いで、テニスして……おまえといた」 「そうだな。ホントに楽しかったな」  君はグラスを傾けながら寂しそうに微笑んだ。 「なあ、秀和(ひでかず)。もし自分に魔法が使えたら、おまえはどんな魔法を使うか?」 「魔法? なんだよ急に」  おかしな質問をするなと思ったが、その当時、ファンタジー映画が大流行し、アイドルが魔女の格好で下手な歌を歌っていた。その影響かと質問の意味をあまり気にしなかった。 「そうだなあ。どこでもドアとか?」 「それは魔法なのか?」 「え、違うのか?」 「まあ、いいが。俺はな、一度でいいから過去に戻りたい。俺はたった一つ、過去に間違った選択をしたんだ」 「一つだけ? おまえはやっぱり凄いな。俺なんか間違った選択だらけで、どこをどう直したらいいのか自分でも分からないよ」  店から出る頃になると僕は泥酔していた。タクシーがなかなか捕まらず、君と夜の街を歩いた。まともに歩けなくなって君に抱きかかえられた。それがたまらなく懐かしかった。 「おまえは知ってたか?」 「何を?」 「俺がおまえに酒を飲ませた理由だよ」  タクシーに詰め込まれる寸前、君はぼそりと呟いた。  ――おまえをこうやって抱きたかったんだ。  その言葉の意味はよく分からなかった。自分の幻覚かと思った。遠ざかっていく君をタクシーの窓からぼんやりと眺めながら、背中にまだ君の体温が残っている気がした。
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