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 私は今、客の来ない探偵事務所の回転椅子で読書に勤しんでいる。そうしている間は将来への漠然とした不安も、所長(上司)の腕が悪いことへの不満も、"去年の出来事"も何もかも忘れていられるから。  だから、扉の開く音で現実に引き戻された私が、タオルで汗を拭きながら入ってきた所長を睨んでしまったのも仕方がないことなのだ。何せこの男は私の抱える不安や不満の殆どに関与しているのだから。  あの大学2年の夏休み、学校のサークルや部活動に所属していなかった私は、今はもう居ない"彼女"と一緒にとあるグループを立ち上げた。それはSNS上の集まりで、お互いの顔も素性も知らないメンバーが何か"誰かの為になること"を実行し、それを報告し合うというちょっと変わったものだった。今にして思えば、日常生活で満たされることのない承認欲求を満たすためのシステムであったような気がするし、そう考えると自分の青さに少しの羞恥を覚えたりもするが、目的を達成するための手段としては至極健康的でまっとうなものだったとも思う。  SNS上で私達の考えに賛同してくれた6人(実は所長もその一員だ)に私達を加えた合計8人からなるそのグループの活動は、実際のところ、そこそこ上手くいっていた―――はずだった。  ところが、ごく普通の女子大生だった私と"彼女"は、いつしかグループを通じて巷で噂される連続殺人犯"ヘルパーX"と否応なく関わっていくこととなり、何の因果か今の上司と協力して解決の糸口を掴むに至る。そしてその過程で"彼女"は―――。  そこまで考えたところで、やっと私の意識は目の前の所長に向いた。どうやら「コーヒーを入れて欲しい」だとか「書類の整理をしてもらいたい」だとか、そんなことを言っていたようだが、事件のことを思い出させられた私からは既に全ての勤労意欲が失われてしまった。どうせ来客もないのだから自分で書類の整理でも何でもすればいい。  そう思った私は、後ろから聞こえる所長の制止を無視して扉を閉め、蒸し暑い外へと出た。帰って何をするかは考えていなかったが、"あの時"を思わせる暑さにふと思い立つ。そうだ、"彼女"のお墓参りに行こう。そして事件の思い出話をして、私の今を報告するのだ。これからも誰かの為に頑張ってみるよ―――と。
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