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カラン。
軽やかなドアベルの音と共に「いらっしゃいませ」という、聞き覚えのあるかすかな京訛りの声が聞こえる。
咄嗟に俺ははっと視線を上げて、次の瞬間に目の前に入ってきた光景に言葉を失う。
「あれ、藍屋ここでバイトしてたんだ」
次の瞬間、朔弥がのんびりした口調で声を上げる。目の前には何故か、アルバイトでもしてるみたいに、黒のお仕着せのパンツとベスト、蝶ネクタイをしたアキが立っていた。
俺は意味が分からなくて、完全に言葉を失う。
って……これ、バイト、してるって格好だよな。
今日だけ特別何かで頼まれて入ったとか……。
そんな感じがしないくらい、その見たこともない衣装のアキは、人見知りのくせにそこでは慣れて穏やかで、落ち着いた顔をして、俺たちを出迎えたんだ。
「……アキ、何してんだよ……」
つい、アキを責めるような声が漏れた。
いや、正直に言えば責めたい気分だった。
だって、そこにいたのは、俺の知らないアキで。
その事実がどうしようもなく耐えがたいって、その感情の根本に何があるのかすら俺はわからないほど、まだ子供で。
「何って……アルバイトやんか……」
アキがどこか開き直ったみたいにして、ふてくされたようにそう言い返す。
「今日、薙刀部、部活だろ?」
校内の部活について書いてあるホワイトボードをふと思い出してそう尋ねると、アキはとっさに俺から視線をそらした。
その瞳には明らかに何かをごまかそうとするそんな意思を感じて、その理由がわかった瞬間、俺はかぁっと全身に熱がこみ上げる。
「……部活、今休部してるんや……」
アキの答えに俺は眉を顰めた。
「……なんで部活休部してまで、アルバイトしてるんだよっ」
瞬間的に声を荒らげてしまう。
アルバイトを始めたことも、部活を休部していることも、何も俺は聞いてない。
毎日同じ部屋で寝起きを共にしてて。
それにアキは俺にとって一番大事な人間だと、そう思っていたのに……。
アキにとっては俺はそうじゃなかったんだろうか?
そう俺が疑問を持った瞬間。
「……慶には関係あらへんやろ。人には色々事情があるんや。それに、慶みたいな極楽トンボには俺の事はわからへんっ。偉そうにあれこれ言わんといて欲しいわ!」
アキが顔を紅潮させて、俺に向かってそう言い返した。
「………………」
俺はその言葉に愕然とした。
アキが俺に何も相談してくれなかったのは、俺が極楽トンボで、アキの痛みや苦しみを何ひとつ、理解してないってそう思うから。
だから、俺には相談する必要も、価値も、そんなことすら思いもしなかった、っていうことかな?
ゆっくりと血が下がっていくような気がした。
ああ、そういうことか……。
だから、アキは俺に何一つ相談もせずに、同じ部屋に居たのに、何も言わずに、こうやって一人でアルバイトをすることを決めて、一人で部活を休むことを決めて……。
そうか、俺が思っているほどは、きっとアキは俺の事を思っていない。
すとんとそんな感覚が胸の奥底に堕ちていった。
それは氷に包まれているような感触で、胸を落ちていくたびに、俺の心を傷つけていく。
傷ついた端から、そこが凍り付いていくような気がした。
何か言わなければいけない気がして、一瞬アキの顔を見つめたけれど、言うべき言葉が見つからなくて。
俺は咄嗟にその場に居たら、何かとんでもないことをしでかしてしまいそうで。
そのまま踵を返し、ゆっくりとカフェの入り口に戻っていく。
アキの視線を背中に感じながら、徐々に煽られるみたいに足取りが早まる。
もう一度ドアベルを鳴らして外に出るころにはほとんど走っているみたいになってて。
「慶、どうしたんだよ?」
そう聞いてくれるのは、朔弥だけで。
情けなくて悔しくて、悲しくて。
それはそのまま半ば走るみたいにして、寮に向かって戻り始めていた。
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