荒れ果てた世界、君という星をみる

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荒れ果てた世界、君という星をみる

秋川彰一は、19の歳に兵役を志願した。 大消耗戦を控えた彰一の国は、人的、物的資源をねこそぎ動員するために、大学生のような学業に従事する者への徴兵猶予を停止することを決めたのだ。志願といっても、彰一のような学生に志願をするかしないか、選択肢があった訳ではない。自発的な志願が勧められていたものの、志願をしない者については兵器生産の業務につかせる、志願方法を指導する、などと記されており、実際のところは軍需工場で働くか、もしくは、指導という名の調教、拷問が行われることが目に見えて明らかだった。これだけの心理的圧迫に打ち勝てる者などそうそういない。学徒出陣の措置が国民に発表されてからものの数日の間に、志願の受付や徴兵検査が怒涛の勢いで進められ、多くの者が1週間にも満たない間に、荒れ狂う死地へと向かう決断をしたのだった。半ば強制的に。彰一もその1人である。 国は、死地へ送られる学生の不安や憤りを気遣う素振りもなく、説明も説得もなかった。いつだってそうだ。自分たちは無力で、いざと言うときにはただただ翻弄されるしかない。大学も同じだった。去年までは、教養の秋だ、なんてポスターが貼りめぐらされていたそうだが、今年は、戦の秋。駆り出される本人達の心持ちとは対照的に、赤い太陽と、力強い文字、不釣り合いに明るいポスターだった。学生達はあまりにも突然に絶たれた未来への希望に打ちひしがれるほかなかった。彰一の住む学生寮は騒然として、それでいて、見たこともないほど重苦しく悲壮感の漂う雰囲気になった。これまでの努力に、一体何の意味があったか。青春はもう戻らないのか。 「じゃあ、行ってくる」 それでもけろっとしていた彰一に、1番面食らったのは母親だった。これから生きるか死ぬかの場所にいくというのに、いつも通り、これから学校へと向かうみたいに、高校生の時に毎日繰り返していた何気ない挨拶と何ら変わりのない挨拶をしたから、確かに、大抵の人なら驚くだろう。辛くないのか、と不思議に思うかもしれない。でも、1番辛いのは彰一ではなく、親なのではないか、大切な息子を戦地に送り出すのに平気な親など居るはずがない。それなのに世の中の風潮は、渋る者には母や姉が涙を持って戦地へ向かうように説得しろ、だなんて酷いものだ。彼らが表立って言えない苦しさ、辛さが計り知れないほど大きい事が彰一にも伝わっていた。だから、彰一が1番何でもないように振る舞った。大切な妹は泣き崩れて大変で、みっともないからやめなさい、と言っていた母も、目は今にも水滴が溢れてきそうなほどに潤んでいた。 ああ、最低な世界。 これまでに見てきた世の中は、お世辞にも良いものだとは言えない、反吐が出るほど酷いものだった。酒に溺れた父が作った借金、その取り立て、夜逃げ、勉強だけはしっかりさせたいと、彰一のために母はたくさんの汗を流して、お金を作った。そうしてまで通わせて貰っていた大学、多くの想いを背負っていたはずの自分の未来が、国の為に、一瞬で失われたのだ。世の中はいつだって理不尽だ。もう、ここまできたら、生きることへの未練なんて捨ててしまった方が楽なんだろうか。こんな汚い世界で生きることなんて、望むべくもないことなんだろうか。 駅前は歓送陣でびっしりと埋め尽くされ、校歌、軍歌、太鼓の音があちこちから聞こえてくる。そんな愉快な音とは違って、目の前に並ぶ人々は皆、何とも複雑な表情をしていた。絶望を全て押し殺して笑っている。そんな顔。 黒つめの襟制服に、キラキラとした金ボタン、角帽を被った彰一は、母と妹に手を振って、汽車に乗り込んだ。手にしているこの切符は、文字通りの片道切符。もう、復路の切符を買うことはもう、彰一の人生には無いかもしれない。 集められた志願兵は、優に数十万に上った。兵を訓練する場所は従来のものでは足りず、新たにいくつかの土地が国に買い取られ、訓練の為の基地となった。彰一が遣られた地区は海沿いの大きな街のようなところで、ここも近年になって建設された基地である。汽車から降りて、数十分歩いてきたが、何百人と同年代の男が集まっているというのに基本的には実に静かな道中だった。皆、心が別の場所にあるみたいだった。そんな雰囲気が立ち籠める中、対照的な明るい声色で話しかけてきた子がいた。名前は、三上 秀。 「よお、よろしく」 「ああ、うん」 「すっごい田舎だよな、こんなとこ来るのはじめてかも」 「……そうだな、俺も」 余計な事ばかり考えてしまう彰一の思考を断ち切った彼には、少しばかり感謝したい気持ちだった。 彰一達が始めに連れて行かれたのは表情の変わらないいくつもの灰色の寮棟が建ち並んだ場所だった。この風景が出来上がる間にはきっと無機質で機械的な工程だけが繰り返されたのだろう。見ているとこちらの気が滅入りそうな、そしてやけに威圧感のある景色だった。 通された広間で、整然と列を成した同胞達に迎えられた。もともとここで暮している先輩の兵士達は、品定めをするかのように彰一達を見つめた。居心地の悪さを感じながら、自分達を歓迎する形だけの式典を終え、背を向けて歩き出した時だった。 ふと逸らした目線の先に、人影があった。 真っ白で透き通った肌に、色素の薄い髪がさらさらと風に揺れている。 綺麗…… その人は、野菜が飛び出るほどたくさん入った段ボール箱を両手で大切そうに抱えて、ときどき足元をふらつかせながら歩いていた。 彼を見た瞬間に、心を撃ち抜かれたような衝撃が走った。この場所にそぐわない人だと彰一は思った。この仄暗い場所に、彼だけが異質だった。まるで天使だ、こんな世界で、一体どういう生き方をすればあんな空気を纏えるんだろう。 異質な彼の姿は、彰一の目に不思議に焼き付いて離れなかった。 彰一と三上は、配属された隊が同じだった。三上は、この徴兵に遠足気分でいるようなお気楽な人間に見えて、実は誰よりも冷静でまともであるのが、一緒に行動しているうちに分かった。陰気臭い顔をしたやつや、取り憑かれたようにお国万歳と叫ぶようなやつと一緒に居るよりは、幾分か気が楽だったし、三上と居ると、どことなく気が紛れるのだった。 「お前とは、ここじゃなきゃ絶対に仲良くなってないな俺」 「こっちのセリフだ」 彰一と三上は、一見全く価値観が違う人間だけれど、根本的な何かが通じ合っていた。不思議と、彼にだけは素直でいられた。 彰一に強烈な印象を与えた天使のようなあの人は、寮の食堂で働いていた。人の噂話をするのは好きではないけれど、どうしても気になった彰一は、三上に彼のことを尋ねた。 「ああ、なんか有名みたいだよ」 いわく彼は、かなりの有名人らしい。 「ふーん、綺麗だから?」 「まあ、それもそうなんだけど、……」 「なに」 「男と寝る、で有名みたい」 「…へぇ」 彼の名前は、望月 奏。学生ではないようで、歳は彰一の2つ上らしい。つまり既に徴兵の適齢を迎えているが、体調を理由に兵役免除となっているそうだ。彼の親戚でこの寮棟を仕切っている軍の中将の取り計らいで、食堂で給仕の仕事に従事することになった。ここまでは彰一の頭にすっと違和感なく入ってきた。しかし、三上から聞いた、多くの人間にあまり良い顔をされないであろうその噂で彼が有名になっていることに、言いようのない違和感が残った。 「男と寝る」というのは、明確に軽蔑の意思が含まれた噂話、悪口だった。三上から話を聞いた後も、他の奴らが彼を話題にしているのを何度か耳にした。「淫乱だ」「気持ち悪い」彼に対して向けられる言葉は、教養のある人間が発するものとは到底思えないような幼稚なもの。実際、そんな事を言われて、幼稚だ、なんて何でもないように流せる人間はあまり居ないだろう。あの人は大丈夫なのだろうか、噂を聞いて泣いてしまわないだろうか、と話したこともない彼を彰一は少し心配さえしていた。 でも、少なくとも彼の精神状態に心配は無用なのかもしれない、と日々を過ごしていくに連れて彰一にはそう思えてきてならなかった。彼は、何があっても、いつも変わらず毅然としていたからだ。 透き通るような色素の薄い肌に、ほんのりピンクがかった頬は、可憐な少女のようで、そして、どことなく守ってあげなくては、と思わせるような儚げな雰囲気、当初、望月 奏に対してはそんなイメージを持っていた。しかし、実際の彼は強い人だった。少なくとも、強くみせることができていた。どんな酷い言葉を投げつけられても冷静に流し、「ね、お兄さん、俺にも抱かせてよ」なんて目を細めて厭らしく笑う連中も冷たくあしらって、料理を提供する時、そして片す時は何があっても営業スマイルを忘れない。にこっと笑いかけるその顔は、目を奪われるほどに綺麗だが、お前らの言葉なんて何の影響力もないし、興味ないんだよ、馬鹿じゃないの、と彼の目は依然として冷たくそう語っているようだった。 面白い人…… 彰一は、望月 奏にますます興味を持った。 しかし、遠ざけられているだけならまだしも、罵声を浴びせられたり、足をかけられたり、彼の身に危険が及ぶような悪ふざけも横行していると聞いた。馬鹿な人間が多すぎる、辟易としてしまう。 彼の為に、何かしたいと思った。 その積極的で強い気持ちは、彰一には随分と久しぶりのものだった。 望月は、全員からいわゆる軽蔑の目を向けられているわけではないのだと彰一は気づいた。一部には、彼のことを欲を潜ませた目で見る人達もいる。彼の周りを見ていて徐々にそれが分かってきた。彼を意識しているからこそ、彼に強くあたって気を引こうとしているやつもいるし、自分で自覚のないやつも多い。 兵士達の多くは日々の重圧感からストレスを抱え、発散できない欲望が溜まっている。彼の美しさに息を呑んだのは彰一だけではないはずだ。きっと、これまで男を好きになった事がなくても、抱けないと思っていたとしても、彼は十分例外になりうる。だから、彼が男と寝る、ことはそこまで不思議ではなかった。しかし、それによって彼が受ける扱いには違和感を覚える。淫乱、だとしたら、なんだって言うんだろう、何も彼を傷つける理由にならない。彰一は、例え望月奏がどんな人と体を重ねていようとも、どんな生活をしていようとも、彼の美しさが全てを物語っていると思った。外見が整っているということだけが、彼の美しさをつくっているのではない。彼の内側から溢れ出るものが、自分の心を掴んでいる気がする。 何か、自分にできることはないか。せめて、少しでも彼の支えになれるような。 彰一は、兵士達が大勢押し寄せた食堂内で、大きな銀のお盆に料理をたくさん乗せながら歩き回ったり、積み重なった皿を手際よく片していく望月を少しだけ緊張しながら見ていた。 今日は、話しかけてみよう、、 そう決めていた。もちろん、他の奴らみたいなしょうもないことを言うつもりなんかない。彼に何ができるか彰一は必死に考えたが、まず彼のことをもっと知らなくてはいけない。と思った。自分は何にも知らない、人から聞いた情報だけでは何も理解したことにならない。本当の彼が知りたい。 水を運びに、望月が彰一のテーブルの近くに来た。目の前に座った三上は、左隣と斜め前の友人に楽しそうに今日の軍事演習の成果を自慢げに話すのに夢中だ。誰も彰一がそわそわしているのを気にも留めていないようで、「あの、」と声を出して望月を呼び止めても、気付かれなかったのが助かった。 「はい?」 「あの、えっと、、」 「なに?」 「……あ、お、お水ありがとうございます」 「……あ、はい」 一瞬、驚いた顔をした望月は、少し微笑んで、彰一と三上達の目の前にとん、とんとグラスを置いて去っていった。 絶対変なやつだと思われた…… 「彰一、頭なんか抱えてどうした?」 「今、猛省中なんだよ」 「は?何を?」 その次の日も、そのまた次の日も、彰一は望月 奏に話しかけた。「今日、天気良いですね」「好きな色なんですか」「これ、美味しいです」あまりにもぎこちなくて、恥ずかしい気持ちもあったが、一言でも彼と話したかった。「ああ、そうですね」「ん〜、ブラウン、とか」「あ、ありがとう」と短い返事が返ってきて、そこでいつも彼は去ってった。でもその中にでも、望月と言葉を交わせることができれば、だんだんと距離が縮まってきたような気がして嬉しかった。三上に、なんかニヤニヤしてきもいよお前、と言われてしまったくらい、顔に出てしまうほど嬉しかった。それは、少し不思議な感覚でもあった。 彰一が演習を終えて、自室に戻ろうとしていた時、食堂の裏口に座り込む望月を見つけた。空を見上げてぼうとしている。もう、あたりは真っ暗でまともな明かりもないこの場所では、星が結構綺麗に見えるから、たぶん、空を見ているんだろう。 「こんばんは」 「うわっ、」 「すいません、急に」 「あ、秋川くん…」 「……名前……」 急に話かけられて驚いた望月は、意外にも彰一の名前を呟いた。確かに最近よく話しかけてはいたけれど、名前を覚えてくれていたのは意外だった。 覚えるほど気に留められている感じはしなかったし…… 「覚えてくれてるんすね」 嬉しさと驚きで固まっていると、彼はくすっと笑った。 「ふ、いっつも話しかけてくるじゃんお前、そりゃ覚えるよ」 「あ、嬉しいです…」 「僕のは知ってるんでしょ?」 「え、」 「名前、と、色々……」 「ああ、はい、望月 奏さん」 名前を呼ぶと、脇に立つ彰一の顔を見上げて、彼がまた笑った。いつも見ている貼り付けたような笑顔ではなく、自然で、彰一の視界は花が咲いたみたいにぱっと明るくなった。 もっと、彼のこんな顔がみたい ずっと、みていたい 「奏でいいよ」 「奏さん」 「うん、彰一くん」 「はい」 「なんか、僕に聞きたいことないの」 聞きたいことなんて、山ほどあった。でも、彼が何を言おうとしているのかは分かった。お前、僕のこと知ってるんでしょ?気持ち悪くないの?たぶん、そう聞きたかったのだろう。 「奏さんは、男が好きなんですか」 「わ、意外と直球…… うん……そう、僕は、男が恋愛対象」 「そうですか」 「…彰一くんは、なんともないの?怖いとか」 「ない」 「お前で変な妄想してたりするかもよ、急にキスしてきたり、セクハラしたりするかもよ、」 悲しげに笑う彼に胸が痛くなる。 「別にいいよ」 「……は…?」 「いいよ。それに、奏さんはそんな人じゃないでしょ」 「な、なにそれ、……そんなに話したこともないのに、分からないじゃん」 確かにそうだった。まだまともに話したこともない。でも、 「分かるよ」 彰一には、あたたかくて、包み込んでくれるような彼の心が分かる。たとえ交わした言葉が少なくても。 「……ねぇ、秋の空って明るい星があんまりないんだって」 「へぇ、そうなんすか」 「でもね、綺麗な星座がいっぱいあるんだ、ここは辺鄙なところだから、暗くて、星がよく見える」 「彰一くんも、そうなのかな」 「え?」 「彰一くんを見た時、キラキラした子だなって思ったんだよね」 「周りにたくさんキラキラしたものがあったら、彰一く?のキラキラに、気付かなかったかも」 「…キラキラ…」 「ごめん、はは、急に変なこと言った、……ちょっと引いたでしょ?」 謝らなくていいのに、申し訳なさそうに、そして、彰一の気持ちが離れていないか心配そうに、眉を下げてこちらを見上げる。奏さんの目の中は彼を見つめる彰一の姿と星空の淡い光でいっぱいで、胸がきゅうと締めつけられた。 「俺も、良かったです。奏さんみたいなキラキラした人に会えて」 「奏さんは、渇いたコンクリートの割れ目に咲いてる、純粋で綺麗な花みたいだと思います……あなたの方が、キラキラしてる……」 奏さんは目を見開いて、そして口元に手を添えて柔らかく、目を細めて笑った。 「っ、はは、お前それ、恥ずかしくないの?」 「…っは、そっちだって同じようなこと言ったじゃないですか」 「お前、なんか、変だよね」 「何がですか」 「何って、……なんとなく変だよ……僕に構いすぎたし」 「俺が変なのはあなたのせいです」 仕事終わりや休憩時間に、奏さんはよく星を見ている。そんな彼を見つけてから、彰一は何度も、彼に会いに裏口へと向かった。海軍志願兵である彰一達のいるこの場所は海が近く、潮風の匂いが心地よかった。満天の星空と海の匂い、綺麗な彼の横顔。まさかこんなところで、幸せを感じる時がくるとは思わなかった。 奏さんは、俺のちょっと生意気な態度も全部受け入れて、一緒に居てくれる。彼の前だと安心した。三上に感じる安心とは少し違って、心がほかほかするような、そんな気持ちになった。 彰一は、いつ死んでしまうか分からない。依然戦況は悪化し続けていて、国が想定していた通り、大消耗戦が目前に控えている。もしかしたら、永久に会えなくなる日も近いかもしれない。でも、皮肉にもその戦いがなければ、死と隣り合わせの状況に突き落とされなければ、奏さんとは一生出会うことはなかった。何を、誰を恨めばいいのか、もう分からない。 残された時間がどれだけ少ないのか、はたまた生き残って天寿を全うできるのか、どちらにしても、奏さんとの今のこの時間は大切で、貴重で、だからこそ想いを伝えておきたかった。改めて、彼に話すのはなんとなく照れくさいけど。そもそも彼の前で俺は、そんなキャラじゃないから。 「す」 「?」 「す…」 「は?何?」 「何でもないです…」 「はは、なんなのお前」 彼に、どうか命を失う前に気持ちを伝えたい、あわよくば自分のものになって欲しい。一瞬でもいいから。そんな欲がふつふつと湧いて出てきて、彰一はついに意を決して言葉を発する。 「やっぱ、まって、あの、奏、さん…… 俺と、付き合ってくださぃ…」 「ん?ごめん、声小さくて聞こえな……」 「俺と!!付き合って!!!ください!!!」 「っ、ばか!!!声がデカい!お前の音量には中間ってものがないわけ!?」 照れ隠しなのかなんなのか、ぶつぶつと文句を言いながら、奏さんは最後には、彰一の気持ちを受け入れてくれた。こんなところで恋人見つけるやつなんて、そうそう居ないだろうね、と笑う。 「そうですね、あなたが居たからここに来て良かったとさえ思います。」 「なんだろう、変な感じだね」 奏さんから話を聞いてみると、彰一が聞かされた数々の噂は合っているような、間違っているような、そんな感じだった。彼は、確かに男と寝ていた。たくさん。でも、自分とその家族を守る為にその身体を犠牲にしていたのだ。軍隊は表向きには階級が絶対であり、上官の命令は天皇陛下の命令、とまで言われている。「命令」と称して何をさせられたのか、聞かされた彰一は全身が沸き立つような怒りが腹の底から込み上げてきた。とにかく、奏さんには何の非もない。死のための訓練を続ける兵達を差し置いて、呑気に遊んでいるだとか、そんな事を言う奴らも居たが、彼は、むしろ苦しんでいた。その上、自分に劣等感を抱き始めて、自分で自分を愛せなくなってしまっている。それが彰一にとって、とてもつらい事だった。 彰一は、奏を連れて海辺に来た。海軍航空隊の特攻に使われる艦隊、戦艦、錚々たる顔ぶれが重々しく塩水に浸かっている。暮れかかった太陽の光がヒョンの顔をオレンジ色に染めるのを彰一はその一つ一つの場面を逃さないように見つめた。彼は、海を見て、「綺麗だね」と呟いた… 「はい、綺麗です…」 「なんで、さっきからずっと僕の方みてんの……」 「綺麗だから」 「…う、だから、綺麗じゃないよ、僕」 なんでだろう。奏さんは、どこの誰が見ても息が止まりそうなほどに綺麗だ。心無いやつらのせいで自信を失ってしまったのか、曇った表情の彼が、彰一には悲しくて仕方がなかった。海に差した光がきらきらと輝いているのが彼の瞳の中に映る。それを見て、この瞬間、世界で1番綺麗なものを見ている気がすると彰一は心からそう思っていた。 「僕は汚いから。」 「は?奏さんの何が汚いんですか」 「いや、だから、言ったじゃん……」 「関係ない、あなたが望んでやってたことじゃないですよね」 「でも、」 「あなたは、誰よりも綺麗です。全部、ここも。」 そう言いながら、とんと彼の胸のあたりを押す。俯いた顔にかかった長い前髪でその目はよく見えなかったけれど、力を入れてきゅっと結んだ口端は震えていて、彰一の腕を握って掴んだ手まで震えてる。 「奏さん、こっちみて」 奏さんの目の中の光が揺れて、吸い寄せられるように唇を重ねる。「…ん」目をきゅっと瞑って震えるヒョンはとても慣れているようには見えない。「…あんま、キスとかしなかったの、それに、すきなひととは、はじめてだし……」そう言って恥ずかしそうに俯く。ああ、かわいいな、ほんと。 緊張しているのか、やっぱり少し怖いのか、いつもよりもっと小さく見える彼の肩を抱き寄せて、背中をゆっくり摩る。 「ごめん、怖かったですか?」 「……違うよ、そんなわけないでしょ、」 「俺が居る間は、誰にも手は出させないので安心してくださいね」 諦めていたはずなのに、望月 奏という人と出会って、また、この世に未練ができた。生きよう、生きて帰ろう、彰一はそう強く思った。 彰一の軍人としての基礎教育課程は約半年。その間、魚雷艇訓練所で爆撃の実践訓練を積み、操艦訓練を毎晩行った。それはまさに、死のための訓練だった。その全てが、特攻のためのもの。一瞬にして命を失う為の訓練だと言っても良かった。それでも、彰一は諦めなかった。たとえ万に一つでも、生きられる可能性があるのなら。諦めたくてもできない。俺には、家族がいる、それに今は奏さんがいるから。 ついに、彰一が軍に来てから半年が過ぎた。そろそろだ。ここまで、とても色んな事があった。第2の人生だった。愛しい人に出会えた。神さまが最後に与えてくれたプレゼントなのか、嬉しいことだけれど、だとしたらこんなに悲しい最後を用意するのは酷いんじゃないか。奏も、彰一の訓練課程が終わってしまうというのを泣きそうな顔で聞いていた。 「彰一くん、彰一くんが行っちゃうまで、僕のこといっぱい愛して、いなくなっても、少しの間、我慢できるように」 「うん、わかりました」 「僕は、もう、お前がいないと、、」 「俺もです、奏さんが居ないと生きられない」 「今日は、僕がヘトヘトになるまでしていいよ」 そう言って、奏が目を潤ませて彰一の腕を引く。なんだかんだ、最初は恥ずかしそうだったのに、今では積極的になってしまって、可愛くて困るな。そんな可愛い人を自分の手から放さなくてはいけないのなら、それはとても惜しいことだ。もっと可愛い奏さんを近くで見ていたかった。 固い二段ベッドの下段に奏さんをゆっくりと押し倒す。幸せそうに彰一を見上げる天使のような彼のさらさらの髪を撫で、耳にかける。剣帯を外し、軽くなった身体を落として、奏さんの耳元に唇を落とす。奏さんは耳が弱い。すぐ赤くなるし、わざと音を立てて舐めると、ピクッと腰が跳ねる。真っ白で陶器のような身体のあちこちに赤い痕をつけて、彼は自分のものだと、優越感と充足感で満たされるその光景も彰一はとても好きだった。 中に押し入れると彰一をきゅうと締め付けて、離さない。繋がっているのがしあわせ、うれしい、彰一くんといっしょで、なんて、奏さんは頭がふわふわしてくると、とても可愛いことを言う。彰一くんが、入ってくるの、うれしい、きもちい、すき、澄ました感じの奏さんからは普段なかなか聞けない素直なそのままの言葉は、いつも彰一を堪らなくなさせた。堪らなくなってがっついてしまう自分を笑って受け入れる、優しくて、可愛くて、綺麗で、天使みたいな人。 どうか、この人が永遠に自分のものであって欲しい。 日が経つにつれ、どんどんと人が減っていった。隣室の同期生はついに帰らず、生きているのか、死んでいるのかさえわからない。遠い異国の地とはいえ帰還してもよいような頃合いだ。もう少しで、自分の番がくる。 数日後、貼り出された搭乗員編成表には、顔見知りの少尉と、三上、そして彰一の名前があった。身体全体が地面に落ち込んでいくようだった。数分間、立ちすくみ、固まって、ようやく動悸がおさまると、下腹のあたりから、よし、いこう、生きて帰ろう、そんな気持ちが込み上げた。この1週間の間に死ぬ確率は9割越え。そんな最中に、ここまで気持ちを保てているのは、奇跡にも近い。 出発前夜、彰一は奏にあった。いつも通り、星を見て、触れて、キスをして、彼の目に涙が光っていた。 笑って、奏さん、俺、帰ってくるから。 奏は、くる日もくる日も彰一のことを想って待ち続けた。彰一と歩いた海辺の道で彼を思って泣いた。遠くで上がる煙を見て、今もこの時、彼は戦っているのだろうか、生きているだろうか、と考えた。そうやって考え始めるともうダメだった。彰一と別れた日から突然生気を失ったような奏に、食堂で働く先輩達はとても心配してくれた。申し訳なかったけれど、どうしようもなかった。 あれから、1週間、2週間、1ヶ月と経って、もうすぐ、秋がくる。彼が初めてここへ来たときのように真っ赤に染まった木々と少し肌寒い風。また、彰一に会いたい。微かな希望で、奏はなんとか生きていく気持ちを取り持った。 きっと、帰ってきてくれる。また、憎まれ口たたきながら、優しく抱き締めてくれる。綺麗だって、言ってくれる。奏さんが世界で1番綺麗だって、愛してるって、言ってくれる。 それなのに、いくら待っても、いくら想っても、 彼が奏のもとに姿を現すことは、ついになかった。 砲弾が船橋羅針盤に命中。 その砲弾で、操艦中の艦長、秋川 彰一を含め、船橋にいたものの多くは重症。 艦の中程に魚雷が命中し、船体は傾き、やがて波に呑まれて深い海の底へと戦艦は沈んでいった。
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