一回

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「日向社長につっこまれたら、困るやろ?」  たっちゃんはそういう理由から、私の首筋にキスマークはつけなかった。いっそのこと、誰が見てもわかるようなキスマークをつけてもらって、『延岡辰哉の彼女です』と言いたいくらいだった。ありがたいような、ありがたくないような、たっちゃんの気遣い。 「これからどこか、行きたいところはある?」 「なんか、スカッとしたい」  気分が晴れないのは、たっちゃんのせい。そう思いながら、ボソボソとつぶやいた。 「スカッとね。ほな、いいところがあるわ」  そう言って連れてこられたのは、なんとバッティングセンター。バットも握ったことがないのに。 「たまに、ひとりで来るねん。スカッとするで」  たっちゃんに言われるがまま、バッターボックスに入った。わけもわからぬまま、ボールが飛んでくる。 「かっ飛ばせ! ルイ!」  かっ飛ばせば、世界は変わるのか。浮気性のたっちゃんと、ダラダラ付き合うべきか、潔く別れるべきか。なにも考えたくないと思いながら、振り抜いた。ボールをうまくとらえたようで、ホームラン級の当たりが出た。 「ルイ! ナイスバッティング!」  でも、当たったのは一本だけ。たった一本だけでは、世界は変わらない。このままダラダラと付き合うのだろう、私たちは。 「お疲れ様」  バッターボックスから出ると、たっちゃんとハイタッチをして、交代。 「隣のバッターボックスにうちの野球部の人がいてるわ」  バッターボックスに入る前、たっちゃんが小声で私に教えてくれた。バッターボックスに入ったたっちゃんよりも、隣のバッターボックスが気になった。たっちゃんよりも少し小柄な男性が、バットを振っている。顔はよく見えない。懸命にバットを振る、その姿をみつめた。 「よっしゃ〜!」  たっちゃんの声にハッとして、視線を移した。ボールをとらえ、ホームラン級の当たりをみせた、たっちゃん。その笑顔を確認すると、私の視線は再び、隣のバッターボックスの男性に注がれていた。その姿に見覚えがあったから。もしかして、傘を貸してくれた男性かもしれない。あるわけないか、そんな偶然。 「あー! ラスト一球をホームランで締めくくれてよかったわ」  そう言いながら、たっちゃんがご機嫌よくバッターボックスから出てきた。 「ほな、帰ろか?」 「え? あっ」  私の視線はまだ、隣のバッターボックスに注がれたまま。慌てて、たっちゃんに視線を送った。 「まだ打ちたりへん?」 「ううん! 楽しかった」 「楽しんでもらえて、なにより」  ご機嫌なたっちゃんと一緒にバッティングセンターを後にした。春日園野球部の人を、気にしながら。
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