三回

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三回

 たっちゃんは私を、友だちと思っているのか、恋人と思っているのか。いまさら、聞きたくても聞けないまま、ゴールデンウィークの大半を一緒に過ごした。たっちゃんは会うたび、Sに豹変すると私を抱いた。人の気も知らないで。そう思いながらも、私の悦ぶツボは熟知しているから、拒否もできず、されるがまま。抱かれたあとには、私を恋人だと思ってくれているから、抱いているんだと、変な安心感に包まれた。でも、ひとりになると、長年の友だちだから、セックスも挨拶代わりなのではないかと、変な疑念を抱いた。  楽しいはずのゴールデンウィークなのに、なんだかドッと疲れた。その疲れを、引きずっているわけにはいかない。今日からは、日向社長の秘書として、ひとりで仕事をこなさなければならない。そんな、がんばらないといけないときには、「go for it!」と、呪文のようにつぶやいた。そうしたら、なんとなく元気が湧いてくる、私にとっての『魔法の言葉』だった。  朝七時、出勤。社長室の窓を開け、空気の入れ替えをする。パソコンを立ち上げ、ゴールデンウィーク中に届いたメールのチェック。それから、一日のスケジュールと仕事の段取りを確認する。ふぅーっと、大きく息を吸い込んで、はぁーっと、ひとつ吐き出すと、社長室の壁に飾ってある写真に目をやった。どれもこれも、野球の試合中の写真。お茶をイメージしたモスグリーンのユニホーム。きっと、春日園野球部の写真に違いないと思い、近づいてながめていた。写真の中に田野さんをみつけることはできたけれど、佐土原さんの姿がない。最近、レギュラー入りを果たしたから、ここに写真がないのかもしれない。 「おはよう」  突然、背後から挨拶されて、ビクッとして振り返った。いつの間にか、日向社長が出社していた。 「あああ、お、おはよう、ございます」  完全に動揺した私は、声がうわずったまま、挨拶をした。 「おはよう。もう助っ人はおらんから、大変やと思うけれど、よろしくやで」  日向社長は、社長らしさのかけらもなく軽く挨拶をすると、ある一枚の写真の前に立った。 「これ、ええ写真やと思わへん?」  その写真は、田野さんが手袋を外しながら、はにかみ笑いを浮かべているものだった。ユニホームは、なぜだか泥だらけだ。いつ、どんなシーンで撮られたものなのか。野球に詳しくない私は、よくわからなくて、曖昧な笑みを浮かべた。 「これ、ボテボテのゴロでアウトになるかと思ったら、田野くんが全力疾走でスライディングして、セーフになった直後の写真やねん」  ボテボテのゴロ、全力疾走でスライディング。ボテボテのゴロはよくわからないけれど、全力疾走でスライディングはなんとなくわかった。 「セーフでホッとしたあとの、はにかみ笑いなんですね」 「そうそう! 鈍足の田野くんが、セーフになるやなんて。客席からどよめきが起こったんやで!」  その日の試合の結果は、聞かなくてもわかった。チーム一丸となって勝利を勝ち取ったに違いない。 「さて、と。今日も一日、はりきっていこう」 「はい!」  一日、気持ちよく仕事を進めるためには、明るい笑顔と挨拶が大切。元気よく返事をすると、仕事の続きにとりかかった。
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