プレイボール!

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 月曜日。定時を過ぎ、帰っていくお局様の背中を見送ると、すぐに席を立った。 「課長、お話ししたいことがあります。お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」  課長とふたり、応接室に入った。椅子を勧められたけれど、小さく首を振った。 「今まで、大変お世話になりました」  深く頭を下げながら、退職届を差し出した。『退職願』ではなく、『退職届』。私の意思は固い。 「そうか。国富さんはよくがんばってくれていたのに、残念や」  課長はそれだけ言うと、あっさりと退職届を受け取った。 「今月末での退職希望ですが」  ゆっくりと顔を上げて、おずおずと言った。課長は、穏やかな表情で私を見ていた。 「いいよ。国富さんは、よくやってくれた」  そんな穏やかな表情で言われたら、なんだかものすごく悪いことをしたような気分になった。 「丸五年、かな?」 「そうです」 「国富さんがいちばんよく耐えてくれたよ。ありがとう」  『ありがとう』って。やっぱり『退職願』にしたほうがよかったのかも。自分ががまんすれば、社内はうまくいっていたのだから。 「課長、すみません。私のワガママで」 「国富さんのワガママやない」 「でも」  自分から、鼻息荒く『辞める』と言ったものの、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 「国富さんはまだ若い。新しい場所での活躍、期待しているよ」  退職届を提出したら、晴々とした気分になると思っていたのに。憂鬱な気分でオフィス街を歩いた。 「国富さん、お疲れ様!」  お得意先から帰ってきた高城さんが、何も知らずに笑顔で手を振った。胸がズキンと痛み、作り笑いで会釈をした。 「これから帰るん? よかったら、メシ行かへん?」  なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになり、言葉に詰まった。 「彼氏に怒られる?」 「いやいや! 怒られるとか、そんなこと」 「ほな、行こう?」  子どものように無邪気な笑みを見せるから、断りきれない。いつの間にか、自分のペースに持ち込む。高城さんとは、そんな人だ。 「お疲れ様でした」  ふたりで飲みに行くときは、たいてい近所の安くておいしい中華料理店。餃子に豚天、ビールは大ジョッキが定番。ビールが喉を通ると、暗いため息が出てしまった。 「ため息の理由は、お局様か?」 「あの、私」  いつも励ましてくれていた高城さんに、退職することをなかなか切り出せないでいた。 「言わんでもわかるよ? 国富さん、いつもがんばっているもんな」  ますます言えなくなった。でも、他人の口から高城さんの耳に入ったら。合わせる顔がなくなってしまう。 「あの人、野球部のおっかけばっかりしてやんと、仕事したらいいのに」 「野球部のおっかけ?」  派手な外見で、夜のバイトをしていると噂が流れるお局様が、野球部のおっかけなんて。意外だった。 「そうそう」  アツアツの餃子を口にしながら、高城さんが返事をした。横綱食品の野球部は、社会人野球のチームの中では強いと聞いたことがある。私は野球に興味がないから、よくわからないけれど。 「そういえば高城さんも野球、好きよね」 「観るのも、やるのも好き」  そう言って、焼酎の水割りを口にした高城さんは、穏やかな笑みを浮かべた。 「でも、まぁオレなんかは、野球部には入られへん、草野球止まりの実力しかないけれど」  野球が好きってだけじゃ、横綱食品の野球部には入られないのか。同じく焼酎の水割りを口にしながら、ほんの少し、寂しい気持ちになった。 「ポジションは?」 「ピッチャー」  野球の『や』の字も知らない私は、ポジションを聞くだけ聞いて、適当な返事をした。野球の『や』の字も知らない私でも、ピッチャーやキャッチャーくらいはわかる。 「よかったら今度、横綱食品の試合を観に行かへん?」  子どものように無邪気な笑みを見せられたら、断れない。でも、断れる理由がひとつだけあった。 「でも、私、退職するねん。急なことで申し訳ないんやけれど、今月末で」  一瞬、目を丸くした高城さんだったが、またいつもの穏やかな表情に戻った。 「そうか。遅かれ早かれ辞めるとは思っていたけれど。力になってやれんで、ごめんな」 「そんな! 高城さんにはいつも助けてもらっていたし! 謝らないといけないのは、私の方やわ」  課長といい、高城さんといい、本当にいい人なのに。本当は、辞めたくないのが本音だ。
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