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翌日、春日園野球部の練習は休みになった。佐土原くんにかけてあげる言葉が、みつからない。けれど、やっぱり気になって、仕事を終えるとグラウンドに向かっていた。そこに、佐土原くんの姿があった。今日も、一心不乱にバットを振っている。自らの誕生日を、横綱食品に勝って迎えたかったはず。私はただ、そんな佐土原くんをベンチに座ってこっそりと見守ることしかできなかった。
しばらく、佐土原くんをみつめてから、席を立つと、野球部の部室に向かった。甘党の佐土原くんに、クッキーを焼いた。形はもちろん、野球ボール。作りながら、高校球児を応援する女子高生のように思えて、こっぱずかしくなったけれど。
佐土原くんへのメッセージカードに『お誕生日おめでとうございます』と『お疲れ様でした』の言葉を添えて。私の名前はあえて、書かなかった。そのかわりに『あなたのファンより』と記した。かわいらしくラッピングしたクッキーとメッセージカードを小さな紙袋に入れると、部室のドアノブにひっかけた。そして、何事もなかったように、部室を後にした。誰にも気づかれないように、逃げるようにして。
春日園本社のあたりまで走ってくると、少し止まって、息を整えた。蒸し暑い空気に包まれ、じんわりと汗をかいていた。
「ルイ、お疲れ様!」
そんな私の目の前に、爽やかな空気をまとったたっちゃんが現れた。ちょうど本社から出てきたところで、汗ひとつかいていない。
「お、お、お疲れ様。これから帰り?」
いつもとは違う意味で、ドキドキさせられた。額の汗をハンカチでそっと拭うと、たっちゃんがウンウンとうなずいた。
「ビアガーデンでも行こうか? 飲みたそうな顔、しているし」
今は、飲みたい気分だ。断る理由もなく、OKした。
「それにしてもルイ、なんでそんなに汗をかいているんや?」
涼しい部屋で仕事を終えて、すぐに汗だくなんて、不自然な話。鋭いたっちゃんは、すぐさま突っ込んできた。
「日向社長の忘れ物を届けに、駐車場まで走って」
我ながら、うまい嘘がつけた。これで、整わない息も、不自然な汗も、言い訳がついた。
「ふうーん」
それでもたっちゃんは、納得がいかないのか、適当な返事をした。
「ビアガーデンかぁ。もうそんな季節になったんやね」
私はそれに気づかないフリをして、ポツリとつぶやいた。
会社からほど近いホテルのビアガーデンで、夏の空気に包まれながら、ビールと食事を堪能した。昨日の疲れもあって、今日は早く帰りたい。珍しくアルコールが、私の身体に重くのしかかる感じがした。
「今日は、早く会社を出たからまだこんな時間」
たっちゃんがニヤリとしながら、腕時計を私に見せた。
「たっちゃん、まだ週の半ばやで? あと二日、あるわ」
二次会は、お断り。やんわりと口にしたにもかかわらず、たっちゃんが私をグッと引き寄せ、肩を抱いた。手をつなぐことはあっても、肩を抱くことなんてしないのに。しかも、会社の近辺で。誰が見ているかも、わからないのに。
「たっちゃん、あの」
まわりが気になって、肩をすぼめる。私の反応を楽しむようにして、たっちゃんが耳元に唇を寄せた。
「恥ずかしがって、かわいいな」
耳に火がついたように、カッと熱くなった。誰にも見られていませんように、と願いながら、ふたりで夜の街へと溶け込んだ。
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