一回

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一回

 三月末で横綱食品を退社した私は、四月から九月末まで春日園の本社で契約社員として働くことになった。学生時代に秘書検定の資格は取得していたものの、横綱食品では営業事務として働いていたから、まったく必要がなかった資格だけれど。いまさら、役に立った。  現在、社長秘書として働いている田野七緒(たのななお)さんは、スラリとした美人で、本当に妊婦さんなのかと思ってしまうくらいのスタイルの良さ。対して私は、小柄で童顔。黒髪のショートボブのせいか、いまだに大学生と間違われてしまうがもう三十代前半。そんな社長秘書を絵に描いたような素敵な女性から指導を受けながら、日々、奮闘する毎日。満開の桜を愛でる余裕もないままに、二週間が過ぎた。花はすっかり終わり、緑の若葉が風に揺れていた。  日向社長は、お得意様とナイターを楽しむようで、今日は仕事を早く切り上げることができた。たっちゃんを食事に誘ってみたけれど、今夜は先約があるらしい。なんでも、人事課の新入社員歓迎会だとか。そんな時期だから、断られても仕方がない。せっかくの金曜日の夜、帰りにショッピングでもと、職場を出た直後。突然、大粒の雨。しかも、雨足が強い。仕方なく、職場に戻って雨やどりをすることに決めた。  私が滑り込むようにして、春日園の本社の出入口にたどり着いたとき、折りたたみ傘を開いて帰ろうとする男性と、目が合った。すぐにさっと視線を逸らすと、濡れた衣服をハンカチで拭って、空を見上げた。たっちゃんに断られたことも、突然の雨も、仕方のないこと。わかってはいるけれど、なんだか哀しくなった。 「あの、よかったら」  その声にハッとして、視線を向けた。視線の先には色黒の男性の姿。日向社長のような人工的なサーファー焼けではなくて、部活でボールを追いかけて焼けたような、青春焼け。そんな青春焼けの男性が、青い、折りたたみ傘を開いて、私に差し出していた。 「あ、いえ。雨やどりしますから、大丈夫です」 「自分は足が速いし、走って帰りますから」  恐縮する私に笑顔を見せると、青春焼けの男性は傘を置いて走り出していた。 「あ! ちょっと、まっ」  待って、と言う間もなく、男性は行ってしまった。私の手元には、青い折りたたみ傘と、明るい笑顔が残った。  どこの誰だかわからない、青春焼けの男性に、傘を借りてしまった。シンプルで青い、折りたたみ傘。同じ会社の社員といえども、こんなに大きな会社だ。真っ直ぐな瞳と笑顔が印象的な青春焼けの男性ってだけでは、傘を返すこともできない。それに、同じ会社の社員とも限らない。たまたま用事があって春日園の本社を訪れた人なのかもしれない。  それにしてもあの男性、どうして私なんかに傘を貸してくれたのか。相手が七緒さんみたいな美人ならともかく。どうして私なんかに。この傘、なにか仕掛けがあって、盗撮されているとか。実は有料で、あとから多額の現金を請求されるとか。  ……なんて。そんなわけがない。美人でもない、ごく普通の地味な私には、無償で傘を貸してくれた男性の心理が、よくわからなかった。美人には、なんらかの見返りを期待するだろうけれど。なかなか胸のドキドキが、収まりそうになかった。
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