クロエという侍女

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クロエという侍女

「カルミア様は、悔しくないのですか!?あの男は、地位も名誉も手に入れて、子も設けようと言うのですよ!?何でも手に入れて、捨てるものなんて何もないじゃないですか。それなのにカルミア様は捨ててばかりいらっしゃいます...。この部屋から出る事を固く禁じられて。罪人のように足枷をつけられて」 「...仕方ないよ、クロエ」 「仕方なくなんかないです!!カルミア様はまだ十八歳でございます!!今が一番楽しい時期なんです!!あの男はそれを奪って、自分の欲望のためにこんな監獄のような場所に閉じ込めているんです!!それなのに、ギルバート様はカルミア様のために、次期国王という地位をお捨てにならない。優秀なヨハン様がいらっしゃるのですから、それが出来るはずです」 「...クロエ」 「ロザリアという国を知っていますか!?次期国王でもあった王太子が、一人の平民の青年に恋をして、その座を降りています。お覚悟さえあれば出来るんじゃありませんか!それなのにギルバート様は何も決意しないどころか、カルミア様にこんな重要な事すら一切述べませんでした。城外の人間ですら知っているのに」 クロエのチョコレート色の瞳から大粒の涙が溢れる。透明の粒は、雨のように紙袋に染みを作る。 「...私、悔しいです。何が妃に迎えようと思っているですか。カルミア様は身分はなくても、賢明でいらっしゃる。少し勉学を教えれば、すぐにだって妃の器になるのに。始めから妾にするつもりだったんでしょう。どれだけカルミア様をこけにすれば気が済むんですか、あの男は」 カルミアは何も言わないで俯いている。 クロエは目元を袖で拭った。ずずっと鼻水を啜る音がする。 カルミアはクロエを一瞥して、視線を窓の外に移した。 「...最近、ギルバートが会いに来ないのも、これが理由?」 「...はい。カルディアの王女が妃に迎えられるに当たって、王城に二か月前から滞在されています。所謂、花嫁修業と言われる奴です。ギルバート様は、王女様の元に通われているんだと思います」 「...そういう事か」 目の前の霧が少しずつ晴れていく。 ーー二か月前。ギルバートが僕に会いに来なくなった頃と時期が重なる。 この世界には嫁入り前の女性が夫の家に三か月間滞在して、厳しい花嫁修業を受ける慣習がある。 それは王族でも例外ではない。  敵国の王女が城に滞在しているにも関わらず、身分の低い少年の元に通う事が出来ないのだろう。王国内や他国への体裁もある。ギルバートの名声が下がるならまだしも、外交問題にまで発展しかねない。おそらくギルバートは、暫く僕に会いに来る事はないだろう。  日が雲で遮られ、窓の外の景色は暗い影を落としている。カルミアは窓にこつんと頭をくっ付けた。そして愚痴のようにポツリと呟く。 「...ギルが妃を迎えたら、こういう事がどんどん増えていくんだろうね。王妃様の元に頻繁に通われて、僕には見向きもしなくなって....。ギルに愛されなくなったら、僕は何が残るんだろうね」 そう思ったら、カルミアは胸が張り裂けそうだった。 ギルバートが会いに来ない日は、孤独だった。ギルが他の人間の元に会いに行っているかも知れない。そう思っただけで、居ても経ってもいられなくて、心が黒い炎で焼け焦げそうだった。 果たして妾になった僕は、ギルバートが王妃の部屋に通い続ける日々に耐えられるだろうか。 カルミアは自身の細い足首についてる鉄鋼を見て、自嘲するように笑う。 「...ギルも酷いよね。せめてこの足枷を外してくれたらいいのに。僕以外の人間に会いに行くギルを、黙って見ているしか出来ないなんて、流石に辛いや」 「ーーカルミア様」 クロエはカルミアの前に跪いた。手にしてた紙袋が絨毯に落ち、パンと茶葉の缶が転がる。 クロエの突然の行動に、カルミアは目を瞬かせる。 「ど、どうしたのクロエ」 「私に貴方様の足枷を外す手助けをさせてください。カルミア様の専属の侍女になった時から、私決めていたんです。必ずカルミア様を自由にして見せるって。実はそのための策もあります。...私と共に、外の世界に行きましょう、カルミア様」 「....気持ちは嬉しいけど、僕のためにそこまでしてくれなくていいんだよ。もしクロエが僕を外に連れ出そうとしていると誰かに知られたら、反逆罪で首が跳ねられてしまうかも知れない。そんな危ない橋を渡らせられない」  カルミアは高い天井を見上げ、「それに」と続いた。 「僕は卑しい人間なんだ。クロエの人生を捧げるに値しない人間なんだよ」 「そんな事ありません!カルミア様は卑しくなんかありません!魔族の愛の子である私に優しくしてくださいました。貴方様こそ人生を捧げるに相応しいお方です!」 「...クロエは知らないだけだよ。この宮に移された時、ギルに連れられたクロエを見て僕は思ったんだ。魔族との子供である侍女は今まで差別されてきたに違いない。次期妃と噂されている少年の侍女になれば、王城内での地位も上がるはずだ。おそらく僕に感謝もするだろう。そうなれば僕の駒になってくれるかも知れないって」 クロエの充血した目が見る見る大きくなる。角砂糖をスプーンで崩すように、冷たさを感じさせる無表情が徐々に驚きに染まっていく。 (ごめん、クロエ。本当は墓場まで持っていくつもりだったんだけど)  息が詰まる程の静けさが襲う。クロエの顔をまともに見ることの出来なくなったカルミアは、ソファーから腰を上げて、クロエの横を通り抜けた。二歩離れた場所にしゃがみ込み、絨毯の上に落ちている紙袋を拾い上げて、転がったパンと茶葉の缶を袋の中に入れていく。クロエの表情は見えないが、心中が痛いくらいに伝わる。きっと傷つけてしまったに違いない。カルミアは申し訳ない気持ちで一杯だった。 「...分かってましたよ、そんなの」 カルミアは缶を拾い上げる手を止め、クロエを見た。クロエは真剣な眼差しをカルミアに向けていた。 「そんなのとっくの昔に分かってました。こう見えても私、人の思惑や状況を見抜くのが得意なんです。カルミア様の言う通り、私は幼少の頃から、この容姿のせいで差別されてきました。陰口や石を投げられる事は日常茶飯事。住まいを追われる事も多くありました。私は何もしてないのに、魔族の子供という理由だけで、勝手に嫌われて。誰も本当のクロエ・エーデルワイスを見てくれないんです。魔族と番になった母親を何度恨んだか分かりません。……幸せとは言えない幼少期でした」 クロエは悲しげに視線を床に落とした。 「こんな人生を歩んでいるからか、誰かに認められたいという気持ちが常に胸の奥底に渦巻いていました。だから私はとにかく勉強して、上級侍女試験にも合格して、なんとか王城の侍女の職を手にいれました。...知っていますか?カルミア様。この国での女性の役割は、世継ぎを残すためだけの存在。そして身分社会であるこの国において、貴族以外の女性が就ける仕事なんて、畑仕事か花売り、娼婦くらいなものなんです。王城の侍女はとても名誉あるものなんですよ。それこそ、誰もが羨むくらい」 エプロンを握るクロエの手に力が籠る。 「でも王城で暮らしてみても、私を取り巻く環境は何一つ変わりませんでした。石を投げられる事はありませんでしたが、回廊を歩けば陰口を叩かれ、陰湿な嫌がらせも何度も受けました。王城の備品が無くなれば犯人として疑われもしました。...私、人一倍努力しました。誰にも後ろ指を指されないように。でも優秀な侍女になっても尚、魔族の子供である私を誰も受け入れてくれないんです。きっと生きている限り、こんな惨めな思いは続くんだろう。そう考えると、暗闇の中に閉ざされたような気分でした」 「...クロエ」 「カルミア様に出会ったのは、そんな時でした。ギルバート様は王城内の優秀な侍女を集めて、カルミア様の元に連れて行きました。あの日連れてこられた侍女達は、人望もあり、気配りも出来て、働きぶりもいい優秀な侍女でした。私は、どうしてこの中に自分がいるか分かりませんでした。次期王妃と噂されている少年に仕える人間が、こんな魔族の色を宿した人間でいいわけがありません。きっと次期王妃様も私の事を蔑まれて、専属の侍女の座から下ろして欲しいと言うに違いない。そう思っていました」 険しいクロエの顔が、和らいだ。クロエは、初めてカルミアと出会ったあの日を思い出していた。 「...でも有ろうことか、貴方様は私だけを指名されました。カルミア様の思惑は気付いていました。気付いていたけど、嬉しかったんです。初めて人に認められて。暗闇に覆われた心の中に、一点の灯りが点じられたようでした。私はあの日から、カルミア様に一生ついて行こうと思いました」  カルミアは今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、手にしていた缶を紙袋の中に入れた。コン、と袋の中で缶同士がぶつかる音がする。 「...僕はギルバートに性を処理するだけの道具だと思われていた事に腹を立てていた。でもそんな僕が、クロエを道具だと思っていた事が許せないんだ。自分が卑しくて嫌になる」 「そんな些細なことどうでもいい話ですわ。誰だって幼い頃から辛い環境の中に身を置けば、曲がった考えだってします。特にあの頃のカルミア様は、ギルバート様に裏切られて日も経っていませんでしたし。貴方にお仕いしてたった三年ですが、カルミア様という心優しい人間を理解するには、十分すぎる程の時間でした。カルミア様は卑しくなんかありません。それに道具だと言いながら、誰よりも私を大切にしてくださったではありませんか」 クロエは頬を優しい桜色に蒸気させ、いとおしむように瞼を閉じた。クロエの頭の中は、カルミアとの出会いから今に至るまでの記憶で埋め尽くされている。 ーーカルミアはまるで手の焼く弟のようだった。朝にめっぽう弱く、叩き起こさないと昼過ぎまで寝ている。着替え一つ手伝ってあげないと済ませられない。食が細く、食事を残してばかり。カルミアの世話は大変で、慌ただしく月日は過ぎていく。 それでもクロエは毎日が楽しかった。セピア色の世界が、鮮やかに色づくようだった。カルミアの侍女になって、初めてクロエの止まっていた時間が動き出したのだ。 「…私にとってカルミア様は、何より変えがたい存在です。だからこそカルミア様が傷つく姿は見たくないのです。ギルバート様が妃を迎えられたら、きっとカルミア様は傷つきます。...カルミア様の曇った表情は見たくありません。カルミア様はいいのですか?ギルバート様が妃様を迎えられても。妃様と子を生したギルバート様を心から祝福できますか?」 「...僕、僕は」 カルミアは言葉を詰まらせた。自分の胸に手を当てて、答えを探す。 暫くして、カルミアの瞳に透明な滴が溜まり始める。それは瞬きと共に、雨粒のようにはじき出された。 「ーー嫌だ。ギルには僕だけを見ていて欲しい」 これは自分勝手なエゴである事は分かっている。ギルバートは今や国王。国やコロンビーナ家の繁栄のためにも、必ず世継ぎが必要になる。 それでも愛する人が、自分以外に愛を囁き、体を重ねている。そう思うだけで胸が締め付けられるような息苦しさを覚える。幸せそうに子供を抱くギルバートを、心から祝福なんて出来るわけがない。  僕はこんなに嫉妬深い人間だったのか。  俯き、声を殺しながら泣いているカルミアを、クロエは抱きしめた。湯に浸かっているような温かな温度で体が覆われる。薔薇の香水の香りが鼻を掠めた。 「…カルミア様は自分の気持ちを押し殺す癖がありますから、本当の心の声が聞けて安心しました」 クロエは肩を揺らしているカルミアの背中を優しく撫でた。 「カルミア様の世界は狭い。ギルバート様が全てなのでしょう。ギルバート様の愛を失ったら、自分には何が残るか分からない。……そう思うのも当たり前です。でもカルミア様は自分を卑下していらっしゃる。例え、ギルバート様が妃を迎えられたとしても。お心を奪われたとしても。貴方は誰にも負けない魅力を持っているではありませんか」 「そんな、こと、ない」 「いいえ、そんなことあります。ただ気付いてないだけなのです。……カルミア様は外に旅立つべきですわ。様々な人と触れあえば、他人と比べる事も増えます。そうしたら自ずと自分の魅力に気付くはずです。私と共に外に出ましょう。必ずお守り致します」 「クロエ、でも僕は、自信がないんだ。外の世界を知らない、体を売る以外能のない男だ。そんな僕が外の世界で立派にやっているかな」 クロエの甘い囁きに、カルミアはすぐに首を縦に振れなかった。自分は十八年間、箱庭ような世界でしか生きた事がない。...正確には、前世もだが。 いくらクロエと一緒だと言っても、二人で上手くやっていける自信がなかった。未知の世界に飛び立つのは勇気がいる。自分の足で立つより、飼われている方がずっと楽な事をカルミアは知っていた。 「やっていけますよ。カルミア様は賢明でいらっしゃいますから。色々なことに触れて少しずつ学んで行けばいいのです。勿論、すぐに決断しろとは言いません。カルミア様だって思う事があるでしょう。でももしこの足枷を外したくなったら、直ぐに私に言ってください。必ずお力になりますから」 クロエはカルミアを抱きしめる腕の力を緩めた。身動きが出来る程の間隔が広がり、はらはらと落としていた涙をカルミアは拭った。カルミアの胸に抱えていた紙袋は、圧で押され、皺だらけだった。 クロエは、真っ赤になったカルミアの目元を見て苦笑いした。そういうクロエの目元も赤く染まっていて、アイラインが下瞼に落ちている。 「...変な空気になってしまいましたね。ティータイムにしましょうか。今日は生クリーム仕立てのプリンですよ。オレンジペコの茶葉が手に入りましたので、一緒にお茶にしましょう。今用意しますね」 膝を立てて、クロエは立ち上がる。クロエの作る洋菓子は美味しい。しかしその中でもプリンは格別で、口当たり滑らかで、アイスのようにすぐ口内に溶ける。きっと食べればすぐに笑顔になるだろう。本物の家族のように侍女に想われて僕は幸せ者だ。
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