交渉

1/1
前へ
/45ページ
次へ

交渉

その日の夜、しばらく会いに来ないはずのギルバートが部屋に訪れた。 コンコン、と誰かが扉をノックする音がする。 時刻は零時を過ぎている。おそらくクロエだろう。キルギスの王女様が滞在している今、ギルバートが来るはずもないだろうから。 「入っていいよ、クロエ」 零時を過ぎても尚眠る事の出来ないカルミアは、小さなシャンデリアの真下に置かれたロココ調のテーブルで、ホットミルクを啜っていた。常日頃から不眠で悩まされていたが、ここ最近はギルバートの事もあって、さらに寝つきが悪くなっていた。睡眠前にホットミルクを飲むと、寝つきが良くなるとクロエが何処から知識を持ってきて、物は試しとこうして作ってくれる。最近はホットミルクを飲んで、灯りを消すのが日課だった。 重たい音を立てて、ゆっくりと扉が開く。暗闇から姿を現した人物に、カルミアは目を見開いて、思わず息を飲んだ。 「--久しぶりだね、カルミア」 現れたのは、ギルバートだった。 「...久しぶり」 「一週間ぶりだね。元気だったかい?」 「まぁね。ギルも元気そうで」 初夜のような、ぎこちないような雰囲気が漂う。ギルバートは相変わらず、見惚れるくらいの眉目秀麗っぷりだった。しかし少し痩せただろうか。目の下にうっすら隈が出来ている。柔らかいオレンジ色の光に照らされたギルバートの顔は、疲労が滲み出ていた。  カルミアはティーカップの中のミルクを飲み干し、ソーサーに戻した。ギルバートに向けた両目を鋭くさせる。 「それで?今日ここに来たのは、僕に何か話があるからだろ?カルディアの王女様を迎える話?それとも僕を妾にする話?」 ギルバートは目を丸くさせた。ベッドの上の号外新聞に視線を移して、再びカルミアを見る。不機嫌そうに眉を寄せた。 「...クロエか」 「クロエは悪くない。クロエはただ町で配られていた新聞を持ってきてくれただよ。たまたま僕がこの記事を見つけてしまっただけ。そもそもこんな重要な事を早くに言わないギルが悪いよね。いずれ嫌でも分かる事なのに。もしかして事後報告でもするつもりだった?」 「遅れたのは詫びるけど、事後報告するつもりは元からない」 「……どうだろうね。国王陛下の容態すら教えてくれなかったのに。篭の鳥なのだからそれも可能だろ」 カルミアは椅子を引いて、立ち上がった。足首の鎖をジャラジャラと鳴しながら、ベッドの縁に腰を下ろす。 「座ったら。立ったままではなんだし」 カルミアはそう言って、隣を叩いた。ギルバートは少しだけ口元を綻ばせ、カルミアの隣にどさりと座った。 「それで話とは?」 ギルバートの横顔を見て、尋ねる。 「...カルミアも知っている通り、国王が召されてこの国は不安定になっている。俺は来週中にでも即位する予定だ。そしてカルディアの王女を妃に迎える。先の戦争で、アーダルベルトとカルディアは睨み合い続けてる。カルディアの王女を迎えれば、両国の関係も少しは良好になる。アーダルベルト側に課せられた高い関税も撤廃してくれるそうだ。……勿論、リスクを伴う事になるけどね」 「……それは、王女様が内密者になりえるって事?」 「そうだね。でもそれは王女側の行動を注意深く観察すればいいだけの話だ。見張り役もつける。それに、俺が上手に立ち回れば可能性も薄くなるだろう。むしろリスク以上に、国の利益は計り知れない。地盤固めには丁度良かった」 「………ギルと王女様の婚礼式はいつ頃行われるの?」 「来週だよ。即位祭と同じ日程で執り行われる」 思いの他早いなぁ、とカルミアは他人事のように思った。ギルバートから視線を反らしたカルミアは、ぼんやりと空虚に宙を見た。 「……王女様は、どんな人?」 「良く言えば天真爛漫。悪く言えば只の子供だよ。自分を政略結婚の道具だと微塵も思っていない。純真そのものだが………あまりにも稚拙すぎる。彼女を王妃に迎えると思うと、今から胃が痛い」 「へぇ」 カルミアの心には暗雲が漂っていた。雲はたちまち心を覆い尽くし、豪雨を降らす。 うわ言のようにポツポツとカルミアは言葉を溢した。 「僕は男爵の身分もない。子も産めない。いつかこうなるだろう、というのは分かってた。...分かってたけど、愛する人が僕以外に関係を持つというのは辛いね。もっと早く言ってくれたら、僕だって覚悟くらい出来たのに」 「...ごめん。せっかくカルミアと想いを通わせられたのに、この関係が崩れたらと思うと恐かった」 ギルバートは俯いた。 カルミアはそんなギルバートの様子を横目でちらりと見て、再び視線を宙に戻した。 「それで僕はどうなるの?お払い箱?」 「そんな事するわけないだろ。俺は…君を側室に迎えたいと思っている」 「……それに拒否権は?」 「ない。いくらカルミアが嫌だと言っても、これは王命だ」 横暴だな、とカルミアは深い息を吐いた。結局僕は、気持ちを押し殺して、全てを受け入れなければいけない。側室以外の選択肢が用意されていないんだから。あの真っ黒な感情をこの部屋で抱えるしか出来ないなんて。それならいっそーー。 「……ギルが会いに来ない夜は、朝が永遠に訪れないと思える程長かった。ギルの体温が恋しくて、シーツを体に巻き付けて寝た日もあった。今日も来ない。でも明日は来るかも知れない。指を数えながらギルを待ち続けて。頭の中はギルばかりだった」 戦に出かけた未帰還兵を待つ恋人のような心境だった。俯いて顔の見えないギルバートの肩に、カルミアは頭を乗せた。 ギルバートに触れたのは二週間ぶりだ。こんなに痩せていただろうか。 「もしかしてギルが頻繁に僕の元に訪れていたのは、僕に寂しい思いをさせないようにするため?」 「っ違う!!俺が会いたかったから、勝手に訪れていたんだ。一時でも離れたくなかったから!」 ギルバートの言葉に、温かい一筋の光が暗雲に覆われた心を照らした。カルミアは思わず頬を緩ませた。 「僕の事、まだ愛してる?」 「まだってなんだよ。俺の気持ちが揺らいだとでも言いたいのか?俺が愛しているのはカルミアだけだよ。カルディアの王女に愛はない。俺にとって、彼女は只の飾りだ」 「でもいずれ子を生すんだろ?」 「分かってくれ、カルミア。俺が国を納める王様である限り、それは避けられない事なんだ」 「…………分かってるよ。痛いくらい」 カルミアは左足を伸ばした。足首に繋がった鉄鋼に視線を巡らせる。 「お願いがあるんだけど、ギルバート。」 左足を床に下ろして、意を決したようにギルバートの肩からカルミアは頭を上げた。そしてギルバートを見上げる。 「ーーこの足枷を外して欲しい」  カルミアの思いもしない言葉に、ギルバートは戸惑ったような目をカルミアに向けた。
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1125人が本棚に入れています
本棚に追加