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テスト
テスト
友未 哲俊
ゴールデンウィークをひかえた月曜日、一時間目が始まると先生が言いました。
「今から抜き打ちテストをします。点数の悪い子はきっとひどい目にあいますから、しっかりがんばるように」
教室がいっせいにざわつきました。あちこちで、マジかよ、とか、聞いてないし、といったため息がもれましたが、努(つとむ)くんは平気でした。試験勉強なんか、生まれてから一度もしたことがなかったからです。それは「テストのために覚えたことなんて何の役にも立たないし、テストは今どれだけ分かっているかを見るためにするものだから急につめこんだりしたらかえってじゃまになる」というお父さん、お母さんのちょっと風変わりな教育方針のおかげでした。ですからテストと聞いても全然緊張しませんし、社会や英語の授業がつぶれてくれたりするとかえってうれしいくらいです。
裏返しのテスト用紙がみんなに行き渡ると、先生が「始め」の号令をかけました。
何だかいつものテスト用紙とは見た目が全然ちがいます。問題数がとても少なくて、答のらんだけががらんと空いていました。何の科目だろう、と思いながら、努くんは一問目に取りかかります。
問一 キュウリが二本あったらどうしますか。
努くんはびっくりしました。五年間の小学校人生の中で、こんなにおかしな問題ははじめてです。でも、とりあえず答をさがしてみなければなりません。最初に「食べる」という答が浮んできました。キュウリはきらいではありません。ですが、それでは単純すぎる気がします。少し考えます。「よく洗って食べる」はどうでしょう?でも、今は一時間目が始まったばかりでまだおなかは空いていません。「あとで食べる」と書いてみますが、どうも本当らしくありません。努くんはしばらくじっと考え込んで、結局、「別に何もしない」と正直に答えておくことにしました。
ところが、その下を見ると今度もまた同じくらい怪しい質問が待っていたことがわかりました。
問二 取り入れたくつ下が扇風機のリモコンに戻っていたらどうしますか。
答の難しい問題ならたくさん知っていますが、こんなに問題のわからない問題ははじめてです。何回も読み返してみて、ようやく、洗たくして干してあったくつ下を取り入れてみたら呪文か何かが解けて元の扇風機のリモコンの姿に戻っていたということかしらという気がしてきましたが、どうしますかといわれても、どうすればよいのでしょう。「驚く」では答にならないでしょうし、「母を呼ぶ」では自分で何もできない子供だと思われてしまいそうです。ありったけの冷静さを体中から呼び集めて考えてみた結果、ふと、くつ下がないと困るだろうということに気がつきました。それで「かわりのくつ下を買いに行く」と頼りない字で書いておきました。
次の三問目は、なぜそんなことを聞くのかという点を別にすれば、これまでの二つの問題よりは普通に見えました。
問三 あなたが困っているとき、きれいな可愛い女の子が親切に助けてくれ
たらどうしますか。
なぜ「きれいな可愛い」なんだろうという気がしないでもありませんが、これなら何とか答えられそうです。努くんは、一問目や二問目の答よりはしっかりした字で「お礼を言って握手する」と書きました。
次が最後の問題です。
問四 あなたのお父さんとお母さんが死刑を宣告されたらどうしますか。
五年生の教科書や参考書では見たことのない問題ですが、答は他の三つよりずっと簡単かもしれません。
「良い弁ご士をつけてげん刑してもらう」と思った通り書いておきましょう。「ご」の字と「げん」の字が書けなくて残念ですが。
答案が帰って来たのは連休の前の日です。見ると0点でした。0点なんてはじめてです。それも四つの答のそれぞれにペケじるしが付いているのではなくて、大きな×じるしが一つだけ、テストの用紙いっぱいにかかれていたので、努くんは自分の顔に墨で×されたようなショックを受けました。でも、これが実力だから仕方がありません。
休か中のお父さんとお母さんが、しょんぼり帰って来た努くんを見てたずねました。
「元気がないな」
「顔色が良くないわ?」
「0点だったから …」
努くんは正直に答案を見せました。
お父さんとお母さんはテストをテーブルに広げて、しばらくいっしょに真剣に検討してみます。
「確かに難しい」
顔を上げるとお父さんは言いました。
「わたしにも答がわからないわ」
お母さんも同情してくれます。
「そんなに落ちこむことはないさ。ただ、これからは教科書にのっていないような社会勉強も必要かな。なるべく外に出て行くようにするといい」
「公園のまわりを散歩してくれば?きっと気分も落ち着くわ。帰って来たらみんなでお寿司でも食べに行きましょう。きょうはご飯が何もないの」
努くんはこのお父さんとお母さんの子供に生まれてきて本当に良かったと感謝して出かけて行きました。
「自転車に気をつけて」
しばらく公園を散歩していると、後からだれかに呼び止められました。
「ちょっといいかい」
制服姿のお巡りさんが自転車をおりて来ました。
「この近くの子?」
職務質問です。何も悪いことはしていません。
「顔色が良くないね。何かあったのかな?」
「テストが0点だったから …」
「ふぅん、それで?」
「出て行けって」
お巡りさんの顔色が少し変りました。
「親に言われたのかい?」
「はい、外へ出て行けって」
「よく言われるの?」
「時々」
何て親だ、とお巡りさんは顔をしかめます。0点をとったくらいで …
「他には何か言われた?」
「きょうはご飯がないって」
お巡りさんはまじめな顔になって手帳に何か書きつけました。
「他には?」
「自転車に気をつけろって」
警察の目をおそれるからには、きっとよほどひどいことをしているにちがいありません。
「ねぇ」
お巡りさんが腰を落して、努くんの目をまっすぐのぞきます。
「これはとても大切なことだから、こわがらずに正直に言うんだよ。親に手を上げられたりすることはある?」
「はい、いつも」
だってお父さんもお母さんも努くんを見つけたら必ず手を上げて合図してくれますから。
「そんな時、君はどうしているの」
「ぼくも手を上げます」
「当然だ」
お巡りさんは努くんの頭の上に手のひらを置いてはげましました。
「君はなかなか勇気がある」
それから立ち上ると、お巡りさんの顔に戻って腰から無線機を取り出し、どこかに報告しはじめました。
「重要案件発生。小学生が親に追い出されて浮浪中。日常的に虐待されている模様」
すぐにパトカーがやってきて努くんを保護してくれました。
お父さんとお母さんが緊急逮捕されると、警察では、努くんとお巡りさんにもう一度話を確かめて色々な書類を作りました。何が何だかわからないまま、気が付いたら努くんはいつの間にかいっぱいサインを済ませてしまっていました。それが終ると今度は児童福祉センターの人たちがやって来て身柄をうつされました。ここでも、わからない説明をくわしく聞かされて、山ほどサインさせられました。きょうからは、どこかのホームで生活しなければなりません。
何日かして裁判が始まると、努くんも裁判所に呼ばれました。お父さんとお母さんが固まった表情で被告席に並んでいます。
「それでは開廷します」裁判長が宣言しました。「本来なら両親は別々に裁くのが決まりですが、今回は判決がわかりきっていますので、いっしょに裁きます」
次に、検察官が罪を告発します。
「被告人は」
「異議あり!」弁護人がすかさず立ち上がりました。「被告人たち、と、複数形で呼ぶべきです」
「異議を認めます。検察官は文法を守るように」
「では …、被告人たちは」
「異議あり!」再び、弁護人の抗議です。
「検察官のネクタイがゆがんでいます。法廷をぶじょくするもので、とうてい承服できません」
弁護人はどうしても公判をすすめたくないようです。
「異議を認めます。検察官は身だしなみを正すように」
検察官は急いでネクタイを正しい角度にしめなおしました。
「えー、被告人たちは」
「却下します、検察官は続けて下さい」
弁護人がまだ立ち上らないうちに、今度は裁判長の方が先手を打ちました。
きっと「えー」が聞き苦しいとか言いたかったのだろうなと努くんは思いました。
「ありがとうございます。それでは、えー、被告人たちはわずか十歳の実の子に対して日常的に暴行をくり返し、あまつさえ、テストの成績の悪さを理由に自宅を追い出して、病死、餓死、事故死ないしとん死させようと企てたものであり、とても人の親のなせる所業とは思えません。また、巡回中の警察官への発覚を恐れて、あらかじめ自転車に注意するようおどしておくなど、その悪質さ、こうかつさたるやわが国の犯罪史上でも類を見ないものであります。かかる残虐非道な行為は断じてかんかされてはならず、社会的正義実現の観点からも、法律に従って、いな、それを超えてでも厳しく断罪されなければなりません。よって検察は両名に対して極刑をもって自らの罪をつぐなうよう求めるものであります」
聞いている裁判員席や傍聴席の中から拍手が漏れました。
「静しゅくに」
裁判長はたしなめましたが、顔がうれしそうです。
次に検察側証人として努くんが呼ばれました。
証言台に立った努くんは「お父さんとお母さんは無実です」と訴えようとしましたが、裁判長が「証人は勝手な発言を慎むように。聞かれたことにだけ答えなさい」と、途中でさえぎりました。
「では」と検察官。
「これを見て下さい」
彼はポケットに手を入れて、中からキュウリを二本とり出しました。
「これを見て君はどうしますか?」
別に何もしない、と言いかけましたが、それではいけないことを思い出しました。同じ過ちを二度くり返すことはできません。しばらく考えてから、言葉で答えるかわりにキュウリを一本、相手の手から受け取って、端っこをかじってみました。
おおっ、と法廷がどよめきました。
「静しゅくに」
裁判長がみんなを静めると、検察官は「ご覧になりましたか」と言葉を強めて、得意そうにまわりの人たち全員を眺めやりました。
「あのみすぼらしいキュウリに、この少年は恥も外聞もなくむさぼりつきました。彼がどれほど飢えていたかおわかりになったでしょう?涙なしには直視しえない光景です。これこそまさに、彼が日頃、まともに食事を与えられてこなかったことの何よりの証しと言えるでしょう」
彼は自分のせりふにすっかり満足して、ちょっと間をおくと、また思わせぶりに続けました。
「これでも、まだお疑いですか?ではこれはどうでしょう?」
検察官は、さっきとは反対のポケットから、今度は何かの汚いリモコンを取り出して努くんに渡しました。
「さあ、君はどうしますか?」
今度こそ誤解されないように慎重に行動しなければなりません。リモコンなのだから、と努くんは考えます。やっぱりボタンを押してみるしかないんじゃないでしょうか。
努くんが思い切ってボタンを押すと、突然、それまで使われていなかった法廷中の扇風機が長い眠りから目覚め、いっせいにうなり声を上げ始めました。大変です。大切な書類がものすごい勢いであちこちに巻き上げられ、かつらを吹き飛ばされたおじさんやスカートをめくり上げられたおねえさんたちが、わぁとかきゃあとか叫びまわって、とんでもない騒ぎになりました。あわてて努くんが別のボタンを押すと、風はようやくおさまりました。
「静しゅくに」
裁判長が木づちをたたいても、まだ動ようが収まりません。みんな服のほこりを払ったり、持ち物を確かめたりしながら腹を立てています。
ですが、そんな中で検察官だけは、飛び散ったキュウリのかけらや書類をゆうゆうと拾い集め、胸をはって弁論をしめくくりにかかりました。
「いかがです?いたずらというには、あまりにひどすぎる行いです。この少年は我々を困らせて楽しんでいるのです。我々が叫んだりあわてたりするのを見て喜びを感じているのです。だが、それはこの少年自身の責任ではない。両親による長年の虐待が、彼の心をむしばみ、これほどまでにゆがませてしまったのです」
努くんは、もう、あんまりバカバカしくて裁判長に言いました。
「お願いです。ぼくを弁護側の証人にして下さい」
「異議あり!」
弁護人がすばやく立ち上ります。
「心を病んでいる少年にこれ以上証言させても証拠価値がありません」
「異議を認めます」
裁判長は努くんをにらみつけました。
「これ以上勝手な発言をすると退廷を命じるのでそのつもりで。わかったら席に下がっておとなしくしていなさい。では弁護人、弁論をはじめて下さい」
弁護人はかばんの中からおもむろに一枚の紙切れを取り出してみんなに示しました。
「弁護側証拠物件0号として申請いたします」
驚いたことに、それは努くんの0点の答案用紙でした。弁護人から受け取ると、裁判長は両どなりに座っている裁判官と、検察官にもその答案を見せて、四人でひそひそと何かを打ち合わせはじめました。時々努くんの方を見てはまた頭を寄せ合って話すので、はっきりとはわかりませんが、確かに「何てバカな子だ」という声が聞こえてきたような気がします。相談が終ると裁判長は今度はそれを裁判員たちに回しました。最初に受け取った若いお姉さんはもらった答案に目を通すと、クスクス笑いだして努くんをちらっとのぞき、それからもう一度クスッと目を伏せて、笑いの虫がそれ以上暴れ出さないように必死でがまんしているようでした。次に受け取った長髪のお兄さんはぽかんと口を開け、あっけに取られた表情で何度も努くんの顔と答案を見比べていました。三番目のおじさんは目をつり上げ、顔をまっかにしてカンカンにふんがいし、四番目のおばさんは危うく卒倒しそうになり、その隣のおばあさんはめがねの奥に涙をためて努くんをあわれんでくれているようでした。おまけに、一番最後の誰かがまちがって回してしまったおかげで、大切な証拠品は全然関係のない傍聴席の人たちにまで渡ってしまい、0点の答案は、こうしてその場にいる人たち全員の間をぐるっと一周してしまうことになりました。
答案用紙が裁判長の手元に帰って来たのを見届けると、弁護人はわざと声を落して人々にしんみり訴えかけました。
「この親たちのしたことは、確かにゆるされないことでしょう。ですがどうか、できの良くない子供を持った彼らの苦しみもお察し下さい。両名は、たまたま馬鹿な子を持ったばかりに、想像に余りある苦悩と悲嘆に日夜さいなまれ、ついにその重圧に耐えかねて道を踏み誤まってしまった迷える小羊でもあるのです。願わくは、情状をしゃくりょうし、かんだいなる判決をお願いいたします」
言い終えると弁護人は胸ポケットから白い靴下を片方取り出して、右側の目の涙をぬぐって見せました。
これで裁判は終りのようです。あとは判決を待つだけです。評決はすぐ出たようで、裁判官と裁判員は2分もせずに評議室から戻って来ました。
「主文」
裁判長が席に着いて宣告しました。
「来たる五月五日のこどもの日、両名の者を、市中引き回しのうえ、はりつけ、ごくもんに処す」
判決を聞いたお父さんとお母さんはヒーッと声を上げてしがみつき合いました。でも、後についている係官たちが腰ひもを引っ張って無理やりふたりを引き離してしまいます。ふたりはそのまま連行されて行きました。
大変なことになりました。努くんはすぐに弁護人の所へ行って、必死で「上告してください」と頼みました。けれど弁護人は、
「気の毒だがよしなさい。その方がお父さんとお母さんの身のためです。百パーセント勝ち目はないし、往生ぎわが悪いと裁判官たちの心証を悪くして、もっと恐ろしい刑罰にされかねません」
と言って、今度はお尻のポケットから取り出したもう片方のくつ下(洗い方が足りないので少し汚れが残っています)で、さっきとは反対側の目の涙をぬぐうだけでした。
どうすればいいのでしょう?これでは減刑どころではありません。はりつけ、ごくもんより恐ろしい刑罰って一体何なのでしょう。
努くんは外に出ても目の前が真っ暗で、その辺をあてもなくさまよいました。どこかの公園のベンチがあったので腰かけましたが、絶望のあまり何にも考えられません。
「どうしたの?」
声がして顔を上げると、きれいな可愛い女の子が心配そうにのぞいていました。
「お父さんとお母さんが死刑になってしまうんだ」
努くんはさっきの裁判のことを説明しました。
「まぁ、なんてひどい話でしょう!」
女の子は驚いて、真剣な顔つきで努くんを見つめます。
「助けてあげられる方法はないかしら …」
そうつぶやくと、女の子は少しの間、努くんに寄りそったまま上を向いて考えていました。それから急にパッと笑顔になって、
「あなたのクラスで一番成績が良いのはだれ?」
と、ききました。
「哲俊(てつとし)くんだけど」
「仲は良いの?」
「友だちだけど」
「本当にすごく賢いひと?」
「百点以外をとってるのは見たことがないよ。通知簿だって音楽以外はいつもオールAだし」
「じゃあ、その人の答案を見せてもらうといいわ」
うれしそうに女の子は言いました。
「今度ももし百点なら、最後の問題の答を見せてもらうの。そうすれば、正しい解決策がわかるはずよ」
本当です!努くんは感激でとび上がりました。本当に、何てすばらしい考えでしょう。それに、こんなにやさしい子がいるなんて夢のようです。
もう少しで「ありがとう」と言いそうになりました。が、あぶなく思い出しました。お礼を言ってはいけません。握手もだめです。でも感謝の気持ちはいっぱいです。
努くんはやむをえず、女の子の体を抱きしめて、ほっぺたにキッスしました。
すると急に悲鳴が上って、努くんは顔をかきむしられました。女の子がものすごい顔で努くんをにらんでいます。
「色ちび!恩知らず!」
プンプン怒って、あっという間に向うへ行ってしまいました。
努くんは、自分がなぜこんなひどい目にあわなければいけないんだろうと全然納得いきませんでしたが、今はそんなことで悩んでいる場合ではありません。お父さんとお母さんの命がかかっています。ともかく哲俊くんの家へ急ぎましょう。
哲俊くんはヴァイオリンを練習しているところでした。いつも通り恐ろしい音程です。アパート中がきしみを立てていましたが、答案を見せてと頼むと快く見せてくれました。良かった、ほら、やっぱり百点です。これでもう大丈夫。安心したので、最後の答は気になりますが、順番に見ていくことにします。
問一 キュウリが二本あったらどうしますか。
答 「鈴虫の食べる胡瓜(きうり)の決りをり」と俳句を暗唱する。
「詩も川も臍(へそ)も胡瓜も曲りけり」の句でも良い。
問二 取り入れたくつ下が扇風機のリモコンに戻っていたらどうしますか。
答 電気屋さんへ持って行き、暴走しないか調べてもらう。
問三 あなたが困っているとき、きれいな可愛い女の子が親切に助けてくれ
たらどうしますか。
答 ひっかかれないように顔をまもる。
いよいよ最後の問題です。一家三人の運命がかかっています。
問四 あなたのお父さんとお母さんが死刑を宣告されたらどうしますか。
答 ホームセンターへ国旗を買いに行く。
「えっ、どうして!?」
努くんは思わずたずねます。涼しい顔で哲俊くんは答えました。
「初歩的な推理だよ、努くん」
答えながら、またヴァイオリンをギヤギヤ言わせ始めました。身の毛もよだつ音色ですが、どこかで聞いたことのあるようなメロディーでした。
「お父さんとお母さんは助かるの?」
努くんがさらにたずねると、哲俊くんはノコギリ奏法の手を止めて、窓からわざとらしく下の通りを見下ろしました。
「そうさ、そして助かった時にはきっと必要になるはずさ」
「国旗なんて何に使うのさ」
哲俊くんはヴァイオリンを置き、両手をあごの下で組んで、鼻先に両方の人差し指を当てました。
「きょうは何月何日だい?」
「四月三十日だけど?」
「それであしたは?」
「五月一日だけど、それが何?」
哲俊くんは親しみと穏やかな皮肉のこもった視線を努くんに向けました。
「あい変わらずだね、努くんは …」
それからまじめな表情に戻り、もう一度こうたずねました。
「きょうは何の日だい」
四月三十日?努くんには飛び石連休の間の日であることくらいしか思い当りません。
「平成最後の日じゃないか」
哲俊くんがじれったそうに言いました。
「平成三十一年四月三十日。ぼくたちの生まれ育ったなつかしい時代がきょう終る。そして、あすからは令和の始まりだ」
何だかだんだん芝居がかってきました。
「神武天皇より数えて百二十五代目の明仁天皇から、第百二十六代徳仁天皇にかわる日だ」
「でも、それがお父さんやお母さんのこととどうつながるの?」
努くんがきいても、哲俊くんの耳にはもう誰の言葉も届かなくなってしまっているようでした。
「けれどね、努くん、まだ見ぬ未知の時代にさえ、悪はすでに存在しているのだよ。歴史の前ではぼくの働きなど、流れにあらがう落ち葉ほどにも力のないむなしい幻影にすぎないのさ …」
哲俊くんはため息をひとつ吐き、ゆううつげに半分目を閉じると再びヴァイオリンを手にとって、耳障りな音階の続きを奏でて行くのでした。すっかりなりきっているので相手にしない方がよさそうです。
むこうが演奏に夢中になっているすきに、こっそりアパートを抜け出しました。ただ、一度だけ、「あぁ、何だ」と気づいて足が止まります。あれは音程のはずれた「君が代」です。とにかく、今は哲俊くんを信じてホームセンターへ行くしかありません。
店内には大小さまざまな国旗セットが並んでいました。アニメのキャラクターやしかけの付いた面白国旗もありましたが、努くんは保釈金用に準備していたありったけのお小遣いをはたいて、一番大きくてまじめな日の丸を買いました。こんな時にお金を惜しんで、万一お父さんやお母さんの身に何かあっては取り返しがつきません。お腹と両腕で抱えてホームに帰ってきました。するだけのことはしたつもりですが、これからどうなって行くのでしょう。
次の日、朝ごはんを食べていると、世話人さんが「電話だよ」ととりついでくれました。
「元気にしていたかい?」
何と、お父さんの声ではありませんか。
「心配かけたわね」
お母さんの声も笑っています。
脱獄したのでしょうか。
「どうなってるの!?」
努くんは驚いてたずねました。
「恩赦になったんだ」
お父さんが答えました。
「新しい時代のお祝いに」
「今、家に帰って来たの。あなたもすぐにいらっしゃい。お寿司でも食べに行きましょう」
帰ってみると、お父さんとお母さんは家の前で待っていました。努くんの姿を見つけて、伸びあがって手を上げています。努くんはかけ寄ってふたりに抱きつこうとしましたが、日の丸を抱えていたので手が離せません。
「これはいいぞ」
お父さんがそれを見るなり手を打ちました。
「何て立派な日の丸だ。玄関に立ててお祝いしよう」
「じゃあ、いっしょにこいのぼりも立てましょう。きっとよく似合うわ」
三人は再会できた喜びを押さえきれないまま、いつもの何十倍も張り切って、見る間に門のまわりを飾り立てて行きました。日の丸をたて、こいのぼりもしっかりと揚げ終えたとき、向うから黒い大きな車が4台やって来て、家の前で一列に並んで停まりました。ドアが開くと大勢の人たちが降りて来ました。
先頭の車に乗っていたのは、公園で会ったお巡りさんと警察関係者の人たちでした。お巡りさんは努くんに謝ってこう言いました。
「悪かったね。私の勘違いだったようだ。ゆるしてくれるかい」
「はい、もちろん」
努くんがお巡りさんの手を握ると、警察関係者も全員でおわびの気持ちを表わしました。ただ、おわびの仕方がばらばらで、敬礼している人もいればおじぎや土下座をしている人もいます。
二台目の車には、裁判長と検察官と弁護人が裁判員の人たちといっしょに乗っていました。
「静しゅくに」
裁判長がまず歩み出て、お父さんとお母さんに花束を渡しました。
「ご出所おめでとう。以後、誤解される言動は慎むように」
笑顔で受け取る二人に、まわりからいっせいに拍手が湧き起ります。
「もう少しでえん罪を生むところだった。これはおわびの印です」
検察官は布のかかった小さな編みかごを二人に手渡しました。中身はキュウリが二本と扇風機のリモコンでした。
「どんなにバカな子にも生きる権利はある。大変でしょうが不運に負けてはいけません」
涙で湿った記念品のくつ下を渡して弁護人がふたりをはげまします。
次の車には関係のない人たちがいっぱい乗っていました。近所の人たちもいれば、全然知らない人もいます。たすきとハチマキをしてプラカードを持った人までいました。きょうはメーデーです。驚いたことにきれいな可愛い女の子もやってきて、「良かったね」と努くんに言い捨てました。でも、けいかいして少し離れています。
おしまいは福祉センターの人たちでした。中に混じっていちばんあとから哲俊くんが降りてきました。幸いなことにヴァイオリンは持っていません。
あたりはたちまちお祝いのパーティー会場になりました。おとなたちは乾杯のポーズを付けてダンスを踊り、子供たちは犬や子猫といっしょに玄関の門を見上げていました。さわやかな風に日の丸が大きく羽ばたき、こいたちのまんまるな三つの口が青空で気持ちよさそうです。労働組合の旗も頼もしくたなびいていました。
さあ、万歳三唱です。門の前にそろったらみんなで記念写真をとりましょう。はい、ピース!
努くんは哲俊くんと二人で少しはずれた場所へ移りました。
「誤解を晴らしてくれたのは君だね」
努くんが言うと、哲俊くんは首をかしげました。
「ただじゃないよ。将来ぼくがヴァイオリニストになった時、君にはチケットをさばいてもらうから」
「国旗にはどんな意味があったの?」
「記念写真にいげんをそえるためさ」
そこまで先を読み切っていたのかと、あらためて哲俊くんの横顔を見つめ直します。
「でも、どうして恩赦になることがわかっていたの」
「簡単なことさ」
哲俊くんは言いました。
「初歩的な推理だよ、努くん」
梅雨入りをひかえた月曜日、一時間目が始まると先生が言いました。
「今から抜き打ちテストをします。点数の悪い子はきっとひどい目にあいますから、しっかりがんばるように」
さて、最初の問題は多分、こうです ―
問一 それはどんな問題でしょう?
イワシ二匹で三十円。 (終)
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