愚者とナイフ

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 「はーーーーっ」  口に流し込んだ冷たい水を飲み込んだあとに大きなため息をつく。  昨日はあんなことがあったからよく眠れなかった。おかげで体力も集中力も万全とは言えない状態で仕事場に駆り出されることになった。  でも少し疲れているからと言って仕事を減らしてもらえるような職場で働いていない僕は昨日のことを思い出せないほどに朝から夜までみっちりと働かされた。先程まではもう僕の体の中には汗として出せる水分はなくなってしまったのではないだろうか。  ぼんやりと虚ろな目で夜の星空を見上げていると同じくくたくたになった友人がよろよろと近付いてくる。どうやら今日はサボるタイミングを見つけられなかったらしい。 「…はいはいおつかれ、疲れてるとこ悪いんだけど姐さん頭が読んでる」 「なんだろう、まだ幼児があるのかな」 「んー、わかんないけど…早く終わるといいな」  その一言を聞いてから疲れた身体を引きずるようにして楽屋へと向かう。  今日の役者陣は次の舞台での配役ぎめの発表をしていたから発表が終わったあとの楽屋周りはまだ少し騒がしかった。また配役の選び方で揉めていたのだろうか。  人と人の隙間を縫うようにして楽屋の奥へと潜り込み姐さん頭を探す。  姐さん頭は30過ぎほどのスラリとした長身に腰まである黒い髪が特徴の、大人びた美しい女性で誰も名前を知らなかった頃のここの舞台小屋を街の人と一部のコアなファンに名前が知られるほどにまで持ち上げた当人だ。そして、現在は持ち前のリーダーシップを発揮して役者陣を率いている。  人気者の姐さんは今日もたくさんの人に囲まれていたが僕の存在に気付くと皆から離れ僕を連れて奥の空いた個室へと進んだ。 「姐さん頭、呼びましたか?」 「あぁ、少し話があってね。単刀直入に言えば次の舞台に出てほしい」  疲れと睡眠不足で重くなっていた瞼が跳ね、霧がかかったような僕の思考は一瞬で晴れた。  もしかしてこれは夢じゃないか、そう、仕事終わりにあのまま小屋裏で眠ってしまっているのではないか、そう思う僕に向かって真剣そのものの表情をした姐さん頭はこう続ける。 「お前も知っているだろうけどこの前お前が代役で出た舞台がお客様やお得意様に評判がよくてね、座長がまた是非、と言われたんだそうだ。そしてそのときにお得意様からはまた是非、あの少女のような姿をした少年が見たい。と言われているからそれを扱った舞台を次にしたくてね。」 「で、でも僕は役者としては…」 「大丈夫、それは織り込み済みだ。だから今回は端役の一人としての仕事を頼みたい。お前の無理にならないぐらいにするようにお前の父さんにも言い聞かせてあるから」  ここまで聞いてしまえばもう逃げ場もないも当然だった。お得意様からの資金提供などの影響は大きい。そのお得意様の機嫌を左右しかねないこの問題はもう僕一人の都合でどうこうできるスケールではなくなっている。  握りしめた拳の中を冷たい汗がツゥッと伝うのを感じる。あの時のようにまた皆に褒められるほどの演技ができるのか?演技から逃げた僕が?…もしものことを考えると全身から血の気が引く。  そんな僕の心情に気付いたのか姐さんが隣にきて柔らかく温かい手で優しく僕の手を握り、僕の目を見つめ話しかける。 「…半年前に入ってきた少し見込みがある子がいてね。最悪その子に頼むから、無理強いはしないさ。」  とても魅惑的な誘いだった。僕の心は大きく揺さぶられ、いつでも傾きそうなほどだった。  …でも、これで本当にいいのだろうか。  今回の舞台は特殊なのだ。  僕を見せる、魅せるために作られたこの舞台。  誰かのために作られる話なんてめったにない。  しかも憧れの父さんが作った話だ。  ものすごく嬉しかった、だから、絶対に成功してほしい。成功させたい。  でも、もし、僕の代役がこの舞台に出ることでこの舞台は100点に完成する確率がなくなってしまうのではないだろうか。  …それは僕のプライドが、舞台が、皆が好きだという僕のこの気持ちがどうしても許せないというのだ。  …泣き出したい僕の弱さを無理矢理に押し付けて、ここに来る前にあんなに水を飲んだのが嘘かのように干からびた喉から声を振り絞る。  「…大丈夫です。…できます。…僕にやらせて下さい」
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