愚者とナイフ

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 初めてはそう、舞台の上での出来事だった。  あの日は舞台の三日目だった。  前日の晩に役者の一人が脚に怪我をして出られなくなった。前日は夕方から雨が降っていた、きっと足場の悪い中またかかとが高い靴をはいて帰っていたんだろう。  連絡を受けてすぐ、僕達は怪我をした役者、彼女の代わりを急遽探さなくてはいけなくなった。けれど、それは見つからなかった。彼女は端役と言えど台詞はあったし、小柄でなおかつ素晴らしいスタイルの持ち主だったからだ。  だから、僕が選ばれた。僕は脚本家の父の手伝いに通っているだけで役はなかったし、成長途中で小柄な身体、変声期前の高い声、さらに僕は何度もこの舞台を見ているし父を目指して父の書いた脚本なら全て覚えている。  都合が良さ過ぎた。それに代わりはいなかった。舞台を失敗させるわけにもいかない。  でも、とても怖かった。僕は1度は役者を目指した身だが…どうしても駄目だったんだ。それに、初めて着るドレスに高い靴、華やかなお化粧はとても心地良いものとは言えなかった。  不快感と緊張で手が震える。大丈夫、少しだけだから。そう言い聞かせても震えが止まらないあたり、僕に才能がないことを示しているんだろう。  そうこうしているうちに開演のブザーがなる。次々にたくさんの音が、光が飛び込んでくる。  さらに高鳴る心臓を抑えるのもつかの間。  すぐに出番がやってくる。  袖口で姐さんに渡されたナイフをフリルのついた袖口に隠し、僕は幼くあどけない小さな暗殺者となる。  舞台に出ていく。華やかなパーティー会場。たくさんの人達が談笑している中停電が起きる。窓や扉を破りたくさんの賊が攻め入ってくる。激しい攻防線。1人、2人と倒れていく人の影。その中で小さな身体を隠し少しずつ主人公の父、伯爵に近づいていく。するの僕の姿に気がついた伯爵が敵を薙ぎ払いながら駆け寄ってくる。そして、僕に「大丈夫かいお嬢さん、ここは危ないから私と逃げよう」と手を差し出してきたところで僕は不敵に笑い、袖からナイフを取り出し、相手の喉を一直線に掻き切る。  倒れる伯爵、上がる悲鳴、ドクドクと激しく波打つ僕の心臓…。  苦しげに何かを呟く伯爵を見下しながら「恨むなら自分を恨め」と一言残し、仲間と共に去っていく。  あの時の興奮はもしかしたら緊張だけではなかったのかもしれない。  僕は…あの時、とてつもない快楽を感じてしまったのだ。  舞台裏に戻ると皆に褒められた。とても良く演じられていたらしい。緊張感とあの謎の高ぶりがうまく役と場面とあったお陰だろう。  この舞台での僕の役は主人公の家族の仇の1人、百の姿に化けるという賊の姿の1つ。だからこの後はほとんど出番はない。1番の見せ場を終えてほっとする。  控室に戻ってナイフを机に置き、手を開いたり閉じたりしてみる。油断しきった表情が歪むあの瞬間、勝ちを確信するあの瞬間。あの時の感覚が蘇ってきてどうしようもない感情がこみ上げてくる、つい、頬が緩んでしまう。  そして、僕は願ってしまった。もう一度あそこに立ちたい…と。
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