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薪割り
3月の末 雪は消えてしまった。
あの日 開かずの間から聞こえた 正美さんの返信とも思われる音を最後に 彼の気配を感じることはなかった。
私は 憑りつかれたように 絵ばかり描いていた。
いろいろな迷いを振り払いたかった。
正美さんの存在は 自分自身が創り出した妄想かもしれない。
霊魂が 物理的に 雪かきをするとか 薪を運ぶとか そんな話は聞いたことがない。
何日も誰とも話さず 絵ばかり描いていたから 神経がマヒして幻想を見ていたのだ。
本当は すべて 自分がしたことに違いないんだ。
そう思いながら 私は まるでAI搭載アート・マシーンのように 起きている時間のほぼすべて 1日16時間くらい キャンバスに向かっていた。
描き始めた頃とは大きく変わった四季の森が 私の部屋に出現した。
4月の末 私は 森の絵を4枚完成させ それぞれの公募展に出品した。
大きな4枚の森の絵を運び出してしまったアトリエ兼居住空間は 多くの色を失い ひっそりと静まり返っていた。
お気に入りの椅子にもたれて ぼんやり 夕暮れの空を眺めていると 空からひらひらと 春の雪が舞い降りて来た。
まだ咲いていない桜の花びらが散るように 大きな春の雪が ひらり ひらり と 降りてくる。
雪を見ると 私の胸は キュッと切なく 熱くなった。
その時 家の裏から カーン カーン と マサカリで薪を割る音が響き始めた。
私は思わず立ち上がった。
雪男が 薪を割っているのではないか?
いや そうであって欲しい・・・と 心の底で祈っている自分に気づく。
とても信じられないのに とても信じたい 正美さんの存在。
外に出て 彼の存在を確かめる勇気はなかった。
いて欲しい・・・ 近くに存在して欲しい と願う 自分の心を どう取り扱えばよいのか わからぬまま 私は カーンと薪を割る 乾いた音を いつまでも求め続けた。
やがて夜も更け ベッドに入っても 薪を割る音は 続いていた。
寝室の窓から 家の裏を覗いて見ようか とても迷った。
その夜は 月も星も見えない 真っ暗な夜だった。
私は とうとう我慢できずに 寝室のカーテンの隙間から 裏の小屋の方を覗き見た。
暗闇で 誰か ガサゴソと 何か作業しているように見えた。
私は 頭と心の中に棲む正美さんの幻惑を 押し込めることができないまま 眠りについた。
次の朝 森から時折 カッコーの鳴く声が聞こえていたが 薪割りの音は止み 穏やかな静けさが 辺りを包んでいた。
新鮮な春の空気に満たされた森の小径を散歩しようと 外に出た。
玄関の扉に 鍵をかけようと思った時 私は 昨日まで そこにいなかった 白樺で作られた 小鹿の友だちを発見した。
「えっ! 正美さん?」
私は 小走りに家の周りを一周した。
「正美さん どこにいるの?」
「正美さん お願い 顔を見せて」
「正美さん 小鹿 ありがとう!」
私は 見えない彼の名前を呼び きっとどこかにいるはずの人を探すように 車庫の中や薪小屋の中 その周辺を 声をかけながら見て回った。
彼の姿は見えないけれど 彼は いる のだ。
私は 急に 嬉しくなって 白樺の小鹿に 微笑んだ。
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