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開かずの扉
その夜 私は 何をする気にもなれず ぼんやりと 描きかけの4枚の森の絵を眺めていた。
なぜ 正美さんは『冬の森』と『春の森』にしか色を加えないのだろう と考えていた。
『夏の森』『秋の森』は自信作だったけれど こうして4枚並べて見ると 正美さんが加筆した『冬の森』『春の森』には 風が流れている。
夏と秋のキャンバスには 自信作という驕りが 濃厚な色彩と共に ベッタリと張り付いているように見え始める。
その自信を支えていた斬新な構図さえ 鼻持ちならない鬱陶しいものに見えてくる。
何か月もの間 一筆一筆 絵に打ち込んできた気持ちの中に いつの間にか混じり込んでいた 汚れ。
私は 急に気づいた自己嫌悪に打ちひしがれ 自分の胸の奥に芽生えていた根拠のない思い上がりに 愕然となった。
『正美さん 私は どうすればいい?』
心の中で そう つぶやきながら 私は 急に あることに気がついた。
佐川さんは 正和さんが ここを『正美美術館』にするつもりだったのでは と話していたが それらの絵が きっと保管されているであろう空間を隠す とある扉の存在を 私は 思い出した。
その扉は 二階の廊下の突き当りにあった。
二階の間取りの 4分の1は 一階からの吹き抜け。
4分の1は 寝室と廊下と階段。
つまり二階の間取りの 残り半分は その秘密の扉の奥に広がる空間ということになる。
一階の面積から考えると約20畳程の部屋が そこにあるはずなのだ。
初めに この家を借りる時 木村正和さんは
「ここには私たちが札幌に持っていけない古い家具や捨てられないものを収納しています」
と 説明した。
そのため 私は この部屋の鍵について あえて質問しなかった。
けれど 今 私は とても この部屋を覗いてみたくてたまらない。
部屋というより 正美さんが描いた絵を 見たくてたまらない。
その部屋のドアノブに手をかけたけれど 鍵が かかっていた。
当然である。
けれど
『いつかきっと この扉は開かれる』
と 心のどこかで 予感した。
私が 妙な驕り高ぶりを反省し 澄み切った 素直な心に立ち返るなら きっと正美さんは この扉を開けてくれる。
その夜 私の夢の中で 正美さんは 静かに森を見ていた。
水の流れる音 木の葉が風にそよぐ音 小鳥や虫が生活するかすかな音 木の芽が芽吹く音 森の静けさを構成する色とりどりの音を 深呼吸するように吸い込んでいる正美さんがいた。
子どもの頃の正美さんが じっと見つめている沼に 心当たりがあった。
春になったら きっと 行ってみようと思う。
大人の正美さんは 黒髪を長く伸ばし 穏やかな表情をしていた。
似たような夢を 繰り返し見た。
雪が降れば 正美さんは 除雪してくれた。
朝 窓辺には いつも愛らしい 雪だるまが 微笑んでいた。
私は だんだん それが普通になり やがて それが ささやかな幸福とさえ感じ始めていた。
3月の初め。
雪は 解けたり また積もったりしながら 少しづつ春が近づいていた。
雪が すっかり なくなってしまったら もう 正美さんを感じることはできないのだろうか。
そう思うと 寂しささえ 込み上げてくる。
そんな切ない気持ちで 浅い眠りが続いていた ある日の夜明け前。
何か ガタンと物音がして 私は目が覚めた。
薄青い 光とも闇とも言えない色が 窓の外に漂っている。
物音が 家の外から聞こえたような気がして 私は窓を開けようとしたが 凍り付いた窓は開けられなかった。
カーディガンを羽織り 寝室から廊下に出ようとすると 廊下は 水でベチャベチャに濡れている。
いつも 雪だらけの彼が 通った跡 みたいに・・・
「正美さんなの?」
私は もう迷わずに そう 声をかけた。
開かずの扉の向こうから・・・
コトッ と 音が 聞こえた。
心臓の動きが 全身に波打って 響く。
一歩 踏み出す 勇気が出ない。
「正美さんなら 返事して!」
私は 寝室のドアの前に立ちすくんだまま 大きな声で そう言った。
開かずの扉の向こうで 再び
コツン と 音が 答えた。
恐怖と 喜びと 不安と 感動とが 嵐のように吹き荒れ その混乱と衝撃に耐えきれなくなった私は 再びベッドに戻り 打つ伏して泣いた。
こんなことが現実に起こるとは・・・
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