身売り

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 男がマリを連れて行ったのは、予想通りと言っていいのか、観音通りだった。  戦後赤線として栄え、売春禁止法が出た後も格安で女の『観音様』が拝める通りだ。  マリがねぐらにしているスラムとは、徒歩数分の場所にあるのに、随分雰囲気が違う。  道はきちんと舗装されているし、西洋風のしゃれた街灯が等間隔に並んでいる。街灯と街灯の間には木造の平屋が肩を並べているのだから、多分街娼たちは街灯の下で客を引き、長屋の中で身体を開くのだろう。  マリだって、15にもなれば観音通りの存在は知っている。同じ屑物ひろいをしていた少女たちの中にも、ある程度の年齢になったら観音通りに河岸を変える者は多かった。  早朝の人っ子一人姿の見えない観音通り。その外れの長屋の一室が男の住処だった。ごく狭い部屋だ。板張りの床と壁、形ばかりの台所、部屋の隅には盥とタオル、万年床。  多分男が実際に暮らしているのはこの部屋ではなく、ここはどこかから拾ってきた女を一時的に置いておくための部屋なのだろう、と、マリは思った。  「まず、きれいにしないとなぁ。」  ほとんど独り言みたいに言った男は、銀色でところどころへこんだ盥を拾い上げ、台所の蛇口に薄緑色のホースをつけると、どぼどぼと湯を注ぎ始めた。  マリは、逃げ出すタイミングは今かもしれない、と男の横顔を窺ったのだが、男はしっかりとマリのことを凝視していた。  鋭い刃物で切り込んだような、すっきりと切れ長い目だったが、妙な迫力があった。  逃げられない。  マリはここまでついてきた自分の迂闊さに舌打ちした。  けれどそこまで本気で慌てなかったのは、親もなければ財産もない、自分みたいななにも持たない人間を、どこか一か所に無理やり留めておくなんて不可能だと知っていたからだ。わずかな隙でもあれば逃げ出すし、その際に別に惜しむものなんかない。  盥を湯で満たした男は、白いタオルをそこに浸すと、マリを手招きした。  警戒心はもちろん解かぬまま近寄ると、男はマリの顔をほかほかのタオルで覆ってそっと拭った。  恥ずかしいくらいに、タオルが茶色く染まる。  「ああ、やっぱり美人だ。」  茶色いタオルには目もくれぬまま、男は肩を揺らして笑った。  そしてマリにぼろぼろの外套やたセーターやらを脱ぐように促してくる。  マリは一瞬躊躇したが、どう考えても今この場で男から逃げることはできそうになかったので、そろそろと服を脱ぎ、裂け目だらけの半袖シャツ一枚になった。  男はマリが薄着になっても全く目の色を変えなかった。顔を拭った後の笑みを浮かべたまま、男は献身的にマリの垢と埃でまんべんなく染まった身体を拭いた。
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