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3.完璧帰趙【藺相如・昭襄王】
ここは趙の後宮奥深く。
ようやくほっと一息つけるプライベートなスペース。
そこでも恵文王は困り果て、側に控える宦官の繆賢に尋ねた。
「どうしよう……秦の昭襄王に返事をしないといけないんだけど」
「さようですな。結局議事ではどうなりましたか」
「それが決まらないんだよね。みんなが言ってることはわかるんだけどさ。でもそろそろ決めないと本気で攻めてくると思って」
その頃、趙では1つの問題が生じていた。趙王の下に大国秦の王から1通の手紙が舞い込んだのだ。
『和氏の璧をよこせ。15の城塞都市と交換してやるから』
有体にいうとそんな内容。壁とは薄いドーナツ型の宝玉である。何故バレたのかわからないが、王が最近手に入れた和氏の璧は中華の至高だ。何ものにも代えがたい。
趙と比べて秦は強大だ。断ったら無礼だと言って攻め滅ぼされてしまいそうだ。けれども渡しても約束を反故にされそうだ。
秦は虎狼の国と呼ばれていて、信義は通じず嘘をつくと有名だった。約束を反故にされれば周囲の国に趙は鴨だと思われる。そして集られ続ける未来が見える。
渡すべきか、渡さぬべきか。議事は紛糾すれども進まない。
「そうですなぁ。私の客に胆もあって頭が切れる者が居りますが、呼んでみましょうか」
「うん、じゃあお願い」
王の眼下に拝した藺相如は妙に愛嬌のこぼれる美丈夫だった。その細く伸びた眉の下の透き通った両眼で王を見つめ、その物腰は柔らかかった。
けれども王は直感した。こいつはヤベー奴だ。何がというわけではないが、なんか怒らせたら怖い気がする。無意識に少し居を正す。
「お初お目にかかります。藺相如と申します。よろしゅうに」
「ああ、今秦から璧を寄越せと言われていてな」
「仔細は聞いとります。国力がちゃうさかいに渡さんわけにはいかんでしょうなぁ。せやかてただ取られるだけやと周りに侮られてしまうやろし」
「どうしたらいいだろう」
その男は妙に細長い指をその目元にあて、少し目を眇めて何かを考える素振りをした後、面を上げて述べた。
「他に誰もおらんのでしたら、私が行って参りましょか。15城市と引き換えやなかったら、必ず璧を趙に戻しますよって」
その三日月型に曲げられた唇からうっすら漏れる呼気は、穏やかな口調であるのにもかかわらず有無を言わせぬ迫力があった。
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