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エレベーターのドアが開き、生暖かい空気が流れ込む。白を基調とした廊下はどこまでも広がっていた。僕らが歩くたびに足音が反響する。人の気配があるのに、いやに静かな空間だった。
ナースステーションでもう一度場所の確認をして、去り際に対応してくれた看護師に会釈する。
「ロイドってこういうお見舞いとか絶対に参加しないタイプだと思っていた」
白坂さんはぶっきらぼうに言った。
僕もそれには同意する。
「僕も一応クラスの一員だからね」
白坂さんは嘲笑う。
「なにそれ、ロイドはそんなこと絶対に考えていないでしょ。断ればよかったじゃん。誰かに頼むとかさ」
茶髪を地毛だと言い張る白坂さんは挑発するような目つきだった。何もかも見透かしてしまいそうなその眼から視線を外す。
「なんでそんなこと」
「今から行く子の名前ちゃんと覚えているの?」
そう言われて気がついた。僕は何も知らずにここにいた。どんな子が入院しているのか、それが男子なのか女子なのかも知らない。
僕は何となく幹人から託されてここにいた。
黙っていると、白坂さんはため息をついて告げる。
「ねえ、帰んな。無理に来られても心愛(ココナ)が可哀そうだよ」
足を止めた横には三〇二号室、篠田心愛(シノダ・ココナ)と書かれた病室があった。
がらりとその病室のドアが勢いよく開けられる。
「あー早苗(サナエ)じゃん!」
小さい子だなと思った。僕の肩よりも低く、薄い桃色の病院着からのぞく手足は雪のように白かった。華奢な手が白坂さんの方へと伸びていく。
長い黒髪は僕の目の前で舞う。そして、少々たじろいでいる白坂さんのところへと飛び込んでいった。
とても病人とは思えない振舞いだ。
「ちょっと」
抱きつかれた白坂さんは篠田さんを引き剥がそうとするが、磁石のようにぴったりとくっつき上手くいかないようだった。
僕が呆気に取られていると、あれと言った篠田さんと目が合う。
さっきまで離れなかったのが嘘のように手放し、篠田さんは僕の顔を覗いていた。
「さては、きみわたしと同じクラスの……坂下くん?」
誰だよその坂下くんはという心の声は喉の奥へと押し込み、僕はゆっくりと口を開けた。まだ、口の中は枯渇している。
「残念ながら坂下ではなく、青空の空に田んぼの田で空田(ソラタ)ね」
篠田さんは子どものように無邪気な笑みを浮かべる。
「そうか、きみがあの! わたし人の名前覚えるのが苦手でごめんね。名字だけだとまた忘れそうだから名前は?」
「漢数字の一に、心はそのまま心で一心(イッシン)」
名前を告げると、満足げに何度も空中で指を動かしつつ、僕の名前を繰り返していた。僕はその姿に見覚えがあった。いや、それは当たり前の話なのだが、クラスで見た光景ではなく、もっと違ったところにある記憶と結びついた感じだった。ただ、それがどの記憶なのかまでわからない。
「ごめん、あたしこの後用事あるからもう行くわ」
絞り出すような声で白坂さんは言った。
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